私にとっての水俣 ノート <1976年(昭51)>
 私にとっての水俣

 ぼくは、あまり講演なんてことはできませんが、ここにも、中村君とか、彼(石黒君)とか、水俣病にかかわっている人がいるのですが、なにかぼくより詳しいと思うのです。実は、ぼくは、科学的なことや医学的なことに弱い、今日、ここにきながら思ったのですが、この大学を落ちたことがあるんです。ちょうど戦争の年、昭和二〇年、中学を四年卒というときがありまして、徴兵検査にそのままですといくものですから、理科系だったらないというので、無理やり受けたのですが、みごとに落っこちまして、それで早稲田にいったわけです。科学とか、医学とかは、弱いというので、ぼくの作品歴の中でも、こういったものは水俣病だけです。結局、どういう点が、水俣病がぼくをとらえたかというふうに、逆に考えてみますと、また非常に単純な動機で行ったのが、そんな単純なことでは、水俣病をとらえることができないと、水俣から追い返されて、再びぼくが、水俣病をとらえかえすという往復運動があったわけです。
 僕は映画人としての生活経験を持っていないわけです。映画も記録映画しかつくっていないし映画人としてはまったく映画人といえないような生活をしている。記録映画が好きで、記録映画には何かあると思ったわけです。世の中の本当のことをだすということは、誰でもが求めているということを手掛りに、やはり何んらかの自分の足と目で歩いたものを、世の中にだせればということぐらいしか考えていなかった。それからもうひとつは、これは皆さんが考えている自主講座にあるいは、どこかでつながるかもしれませんがテレビの時代が始まったころに、昭和三十一年ごろですか、ぼくは映画に入ったわけです。初めは、テレビはいいもんだと考えていたわけですが、よくよく考えていくとテレビとは必ずしも本当のことが言える場所ではないということが、一年一年たつごとに分かってきた。自分で自由に見たいときに見れない。つまり、空気に流れていってしまい、ちゃんといつまでも人々に話のできるフィルムとして残らない。従って、ぼくがテレビで仕事をしても、ぼくの見せたいときに見せることができない。こういうテレビが持つ構造が、だんだん分かってきて、テレビでないところで仕事がしてみたいと思うようになったわけです。でも、なかなかできなかった。最初、水俣にいったとき、ぼくとしては、水俣なら、ぼくのような医学にうとい人間でも、この水俣病は明らかに、工場が汚染物質を流したことによって起ったのだからチッソを叩けばいいんだなと思ったわけです。チッソを叩きまくる映画をつくればいいんだなと。医学のことは、もう明らかに自明の理であるし、水俣の患者さん達は、きっとたいへんなことを背負っているに違いない。で、特に胎児性の子供は、6・7歳になっていたし、その人達は忘れられていたし、そういう人達をクローズ・アップすれば、もう、社会に対するプロテスト、告発になるだろうと単純にでかけていった。ところが、東京からそういうふうにほいほい行ったところが、ちょうどそのころは水俣病が忘れ去られていたときで、水俣に行った方は充分に御承知だと思いますが、水俣で水俣病患者というふうにいうこと自身がひじょうに勇気のいるような、いまでもそういうような雰囲気というのはありますが、その中でたった一一〇人の水俣病の患者が、パラパラと漁村の暗い室にいるとか、病院のー室にいるとか、誰の眼にもふれないようになっているわけです。もう、ぼくが最初にびっくりしたのは、町に行って、あなたは水俣病の患者にあったことがありますかと、手当り次第に聞くわけです。ところが、返ってくる回答というのがもう水俣病患者はいないはずだ終ったはずだというものなのです。「ではあなたは、患者を見たことがありますか。」と再度聞きますと、「私はないが、私の友達は見たといった」という答が返ってくるわけです。人口が三万五千人くらいの同じ町で、あれほど日本全国を震撼した水俣病を全然市民が知らないわけです。それで、これはどうしたことかというふうに考えたわけですが、例えば、病院にいってみますと、伝染病棟みたいに、病院の一番奥の離れに水俣病の病舎があるわけです。ですから、誰がいっても誰が入院してても、ここから奥はいけない所という雰囲気があって、その最終の病錬の隣は、霊安室だいう構造のところに、水俣病患者が二十何人かが入っているわけです。誰も見ないし、誰も知らない。つまりぼくがいった昭和四一年ごろ、本当に水俣で、水俣病のことを知っている人を尋ね歩いたら、石牟礼道子という人に初めて会えた。それから、赤崎さんという市役所に勤めている人が、自分でわざわざバスに乗って、漁村地帯にいって患者に直接会っている。あとには、ケース・ワーカーしか、町に一人しかいないケース・ワーカーが患者をつかんでいないわけです。

 そのころ、チッソは、ものすごい生産高を誇っていた会社だったわけです。昭和四三年に、アセトアルデヒドの生産は止めましたが四一年というと、最後の最後まで原因が分かりきっても、アセト・アルデヒドをつくろうという時代だったと思うのですが、その中でこんなはずがないと思いながら、とにかく患者さんに会いたいといったわけです。ところが、きっと患者さん達は、あなたがたに会わんだろうという。病院の中で子供達を撮るのはいいけれども漁村地帯にいって、あなたがたが、いくらほじくったって誰も返事しないだろう。そういうような調子なわけです。市の当局者というのは。
 そこで、そんなことは、本当だろうかと思いながらルートを捜したけれど、誰も案内してくれる人がいない。やっと、ケース・ワーカーをやっている人が、私は連れていきたくないんだけれどもというそぶりを顏にありありとみせながら、決してカメラを、私の許可なくして回してもらっては困るとか、いろいろブーブーいいながら連れていってもらったのが、湯堂というところだったわけです。
 そこで、たまたま部落の全景を撮影していたら、部落から声が起きまして、あなたがたはそこで何をしているのか、カメラを撮ったら、カメラを撮ったと声がでるわけです。これは、何が起きたのかと思ったら、胎児性の子供を日向ぼっこさせていた母親が、自分の子供を撮りにきた、盗み撮りにきたと思ったわけです。ぼくとしても、断ってから撮るのがルールだと思っていましたし、そのとき風景を撮るつもりでいたのが、たまたま、フレイムの中に子供がいたということで、たいへんにざわめいて、すぐに謝りにいったんですけれど、今、その時何を言ったのか、詳しくは覚えていませんが。ただただ、怒られたような状態でひじょうにしんどい思いをしたわけです。それは、いろんな機会にその時の思い出として書いてきましたが、とてもじゃないけれど、もう水俣病は撮れない。とてもじゃないけれど、水俣病なんて、撮れるもんじゃない。水俣病ということを考えるにはどうしたらいいか、もう怒られている間中考えていたわけです。
 それで、その後、子供の状態、病人の状態をみていく中で、カメラを回さなくてもみれる範囲でみていくと、これは想像を絶したもので、その部落を歩いてみると、部落全体の歩みがまだるっこい、ひじょうにゆっくりした歩き方を若い人もしていたわけです。なんとなくおかしい、顔も喜怒哀楽がでにくい、喋ってもー病人じゃないですよーなにか酒を飲んで、ちょっといい機嫌になっているときのような口許だし、そういう眼でみていくと、猫もおかしいし、何もかもおかしい。
 これは、えらい地帯だなと感じてきた。しかも、そういったことで撮影にきた人間に対する憎しみというか、寝た子を起こしてくれるなというか、そういった感も、もろにうける。
 一歩宿屋のある町にかえると、もう夜は、苦しいから酒を飲みにいくわけです。そこで、チッソの社員なんかが酒を飲んでいる所で水俣病なんかを言うと、みんなシラケてしまう。ここじゃそんなことを言わん方がいいですよ、みたいなことを言われる。もうまったく、変んな地帯に紛れ込んだものだなという気がした。しかし、その時、ぼくの方で思ったのは、水俣病を撮るってことは、もうとてもじゃないが、撮る資格という点では誰にもないだろうと、確かに母親のいうように、「水俣病をいくら撮ってくれても、ちっとも病気は良くならんばい」という。そのー言にはかてないだろうと。それでも、この子達は、生きていくし、この子達は、今後どうするのかを考えてみると、水俣病をどこからやっていったらいいのか皆目わからない状態だったわけです。
 水俣でのそういうことがあって反面で、多くのことを思ったわけです。ぼくは、もともとは、本当いえば、青年時代に生意気だけれども、レーニンを読んだりいろいろして一生涯革命家として生きられたらいいなと生意気ながら思ったことがあるわけです。それでわりと戦後に、ぼくは18歳で、敗戦を迎えましたが、二年後くらいに共産党に入って学生連動もやりましたし、やったといってもたいしたことはないのですが、共産党員としての生き方をその後一〇年くらいつづけたんです。しかし、党内のいろいろな分裂や除籍がつづきましてもう革命ということは、ぼくには許されないと思ったし、また、自分も政治の、党派的な闘争というものについては、自分ではできないと思ったわけです、そのときには、もうまったく大学も除籍されていましたし、就職難だったし、なんのものを稼ぐ技術もないし、だいたい裁判をひとつかかえていましたので、どちらにしてもまともに勤められるものがない。そこで、弱って何をしていこうかというときに、たまたま記録映画というものを見たわけです。羽仁進という人の教育を扱った映画でしたが、まあ文学ということに興味もありましたし、けれど文才はないし、喋るのはあまりうまくないし事務的な能力はゼロだし、だけど、この記録映画は何かできるんじゃないかと思い、つてを求めて岩波映画というところに入りました。
 入ってそこで、自分のなにかをやろうと思ったのですが、たちまちの内になんというか、資本の命ずる仕事に埋没してしまい、もう自分の考えはこうだ、ドキュメンタリーはこうでなければならないなんて討論している暇もないくらいになってしまうわけです。
 PR映画というような八幡製鉄とか、そういうのが自分の工場の新しい設備を、我々は日産何千トンの溶鉱炉をつくったとか、どういうストリップ・ミルをつくったとかということを、国内国外をとわず宣伝するために金を惜しまずにやったわけです。そういったことが、ひじょうにさかんな時期に、岩波映画に入ったわけですから、鉄工場にいって、マネージャーというか、弁当をつくる役みたいなことをやっていて、白分の頭が、だんだんおかしくなってきて、その内、自分の工場に天皇が来るから、その天皇を来た記念に撮っておいてくれといわれまして、これを断ったらどうなりますかと聞いたら、「それは君、断ったら具合いわるいよ」と言われまして、天皇まで撮りにいくはめになって、消耗に、消耗を重ねていたところに、小川紳介とか、黒木和雄とかそういう仲間がいたものですからそういう連中と-ぼくらみたいな生意気な連中には、あまり仕事はこないもんですからー研究会をつくりまして、「俺達は、本来何を創りたいか」を、あまり暇があったわけではありませんが、そういう研究会をつくる中で、将来、俺達が、映画を作るようになったら必ず民衆の中に入いろうと、つまり、そのときの状況としては、鉄工場の中に入いるしかなかったわけですから。民衆の中ったってどの民衆の中かわからないわけですが、民衆の中に入いろうっていうしかイメージがなかったわけです。そういったような理由で、映画には何かができるはすだと思っていて、それで、水俣へ来るという段取りになったわけです。ところが、水俣に入ってみて、とてもじゃないが、「映画を撮ります」「私は、映画のプロでございます。」という形では、映画を撮れないような世界が、ここにはあった。それから、そういったことを先程述べましたが、わかると同時に、なんというか、もうひとつ、こういう感じがしたわけです。ぼくは、党派的な人間として生きようとした。しかし、そういうことは、自分で放棄していった。つまり、脱政治というか、政治には、背を向けた生き方にも近いような生き方をしてきた。しかし、どこかでは、本当の政治的な闘い、あるいは政治的な力量をもった革命的な党派が生まれなければいけないと思うけれども、そういったものを、自分でつくるとか、自分で、それをゼロからするのは、元気も目標もありません。しかし、自分で創るものとか、認識の中では明らかに、そういった変革とは何かということはさぐろうというような意識は、ほそぼそと、持とうと思っていました。
 そのような眼で、水俣を見ますと、これは、資本が途中で、この形をやめて方向転換できるような質の公害ではない。つまり、資本主義がですね、どのように考えても、この公害を、一部でとめることはできるかもしれないけれど、この公害を起こす体質というものは、どこに根ざしているかというと、これは決して何かの間違いとか、ミスとかいうものではなく、資本主義が持っている、そのものの中身から生まれた自家中毒的なものであると。
 この公害をなくせということはそのことを、とことん突き詰めていくと、その公害を生みだした社会的な機構から、資本主義のもっている一切のものを洗ってひっくりかえしていかなければ、この公害というものは、明らかになってこない。もっとはっきり言えば、今社会主義社会というものを、確実に、次の段階に止揚していかなければ、公害は、絶対になくならないというふうに直観したんです。その利潤追求とか、戦争とかいう方で使っていた人間の奢が、じかに自分達のつくった財貨物がそのまま自分達を壊していく時代に入った問題だなと思ったわけです。それは、ひとつは原爆という問題があります。ぼくは、原爆の映画を一度も撮っていませんが、この原爆という問題は、人間がつくった最高の科学の産物が、人間を類として死滅させていくというそういった破壊力を、人間が自分達でつくって地球そのものを壊していく時代に入ってしまった。そのことが原爆ならはっきりとみえる。そのような意識はあったけれども、水俣にくると、このような繁栄をもたらしている化学工集がやっぱり、いままで全然人々が触ってみたこともないような毒物の形、ヘドロの形で、海に流している。それが、回り回って人間を類として壊していく、つまり、たまたまそれに触ってやけどしたというのではなくて、それを(汚染魚)食べている自然に生きている人間が、確実に壊れていっている。やはり、そのことを問い質さなければいけないし、問い質していけば、どこかでぼくたちにできる映画、あるいは表現者としてできるー政治運動から逃げたり、エスケープしたぼくとしては-何かがあるかもしれない。そういうことでもしなければ、俺はだめになるだろうという感じを、そういうわかり方をどこかでしていたと思うのです。それと同時に、二度と水俣なんかに来れないという複雑な思いだったのですが。それで、いろいろ迷って、いろいろなことをやりました、次の段階にようやく、水俣の患者さん自身の闘いが、めばえてきた。そういったためばえの中で、前におまえはなぜ撮ったかと言った人が、ひょっとすると今裁判闘争で闘いはじめているかもしれないという気持があって、それではなんとかして運動に参加してみようというので、ぼくの7 0年に始めた行動というのは、東京告発する会というのをつくる発起人の仕事からはじめたのです。
 しかし、映画は、まわしませんでした。それは、水俣は運動をつくをることから始めなければ、絶対に映画は撮れない。例えば、ぼくが、権力を持っているテレビの人間で、NHKかなんかで、NHKの看板背負って、患者さんを撮るといえば、撮れるかもしれないが恐らく患者が本当のことを言う映画をつくるには、運動を自分でやってみなければ、やはりそういうものは、できないであろうということで始めたわけです。
 患者さん自身が、裁判闘争を闘っているときで、闘っているから自分で言いたいものがでてきているときで、それも何年も自分でためてきただけに、ひじょうに喋ると、一言喋るごとにその人の顏が明るくなっていく、それからぼくたちがわかったという顔をすると、とても自分の思い出を次々にさぐりだしてくるわけです。だから、もともとはおしゃべりじやなかった患者さんが、長い闘いの中で70年は初めて着目されはじめた年だったと思うわけですが、そういう中で、ぼくたちの映画でも、もしかしたらこの人達は、ちゃんと喋ってくれるかもしれないという確信がうまれ、最初の自分の長編記録映画をつくったわけです。
 水俣の映画を撮ろうということは、そういった、ものすごく恵まれた社会運動、社会的活動の本当の溌剌と生まれてくる時期にやはり、ぼくたちも、前の傷を癒して溌剌と映画をつくろうというような動きができたと思うわけです。だから、映画というのを、ぼくは生きものだとよくいうのですが、自分の眼をおく、依拠するべきものが生きていなければ、映画も生きてこないわけです。それから、そういった社会的な運動が強くないときには、映画はやはり、強くないわけです。従って、そういったもので、結果として生まれた映画というものは、決してひとりの作家の作業じゃなくて、映画を必要だと思った人達の全部が映画に結集されるものだというふうに思っているわけです。ただ、ぼくたちが、もっている問題というのは相当いろいろありまして、例えば自分の個人の新聞をだしている人がいます。水俣に、一定期間の有限、期限付きの新聞発行をやった砂田明という人がいます。自分の表現を、自分のできることでやろうと、自分の良さの中でやろうというときに、彼はどうやってやったかというと、御存じだろうと思いますが、砂田明の「水俣より」でしたか、自ら毛筆で、細く書くわけです。それを写真で撮って、写真製版にして新聞にして送る。ひとつの活字も使わないわけです。挿し絵も写真がつかえないわけですから、自分でペン描きする。これは、やはり一回だすごとに、一番安いときで送料も入れると五万円くらいかかったと思うのですが、そういう表現ができる。
 ところが、映画というものは、何千万円とかかるわけです。そういった意味では、自分でつくりたいと思っても、なかなかうまくつくれないわけで。そこから映画というのは、犯されやすい媒体なのだといえます。金のある人に占領されやすい媒体なのです。資本家とか、テレビは映画とは別にしますが、ヒモがつくとか、単純にいっても商業性が要求されたり、もっというと、それへ検閲を要求されたり、ある場所には、党派的色彩を要求されたりするわけです。
 まあ、ある革命政党が、ひじょうに文化活動が盛んだとすると、そこにあるトータル・スローガンに、映画というものは貫かれていなければならないわけです。それは一見自主制作で、自主上映のように思えますが、その組織力というものによって金もだし、上映も確保していく、そういった人達が全国で集って映画会をもってくれるというような党派の映画がありますが、そういう党派の映画には党派の論理がどうしても付くわけです。そこで、ぼく達のつくる映画というのは、先程の運動(熊本告発する会)が党派を超えた運動であったように、ひとつの党派の下でものを言うつもりは、まったくありません。それから、誰々にこういうことを描いてくれといわれ、注文されてお金をもらうということも拒否しました。
 結局、自立した自分達の映画をつくっていくときには、まったく自立した人達と、自立した運動と手を組んで映画をみせてゆく以外にない。そういった意味で、やはりそうとうな経済的な問題もあったわけですが、その日から数えて十本ほどの映画をいままでつくってきたわけです。
 水俣病に関する限り、医者はひじょうに大きな誤りを犯してきたわけです。例えば、あなたがたが何かの判断を持ったとする。それは、たいへんな判断でありそれに対して他人が、その判断は役に立たずというふうに決められて黙っていることは普通できないと思うわけです。ところが水俣病は町に町医者がいるわけですね。それで、ああいうところですから、お医者さんを大切にするわけです。かかりつけみたいなお医者さんなんですが。
 そのお医者さんが、あなたは水俣病だと思うから、普通は、なかなか診断しないのですが、その人すら診断して出したものを審査委員会という、熊本大学の医学部を中心とした人、行政の責任者で構成している認定審査委員会が、医学的判断として、これは水俣病ではない、とか、保留だとかいうかつてな判断を付け加えるわけです。ところが、それに対して町医者の方は、自分の判断が、どうしてそのような判断になったのかを、その会議で述べることすらできないようなわけです。
 いわゆる書面主義といいましてカルテに書かれたものを書面で審査するというだけで、自分は水俣病だと思って出しても、述べることができない。水俣にいる医者は、臨床の豊富さでは、大学の教授の比ではないのです。しかも、その人達は、どちらかというと、水俣病患者をできるだけださないような圧力を身に受けていて、本当に恨まれている医者は、たくさんいます。これだけひどくても、あの人は、水俣病に認定してくれなかったといってですね。そういう人ですら、水俣病だと思うから公害課にいって書類をとってきて、自分が診断書を付けてあげるからという形で申請したのを、昭和三四年からうまれた認定審査委員会は、その審査を元にした県の答申によって認められれば、お金がでるということのために、書面では自分で相当確信をもっても、はっきり言えば、これは一六〇〇万の保障にあたいするほどの病気であるのかどうか、水俣病であるかどうかという判断しかないと思うのですが。ある判断をして、それを棄却したり、保留にしたりしていくわけです。医者の上に医者がいるわけです。医者の上に、この医学判断を勝手にする人達がいるわけです。その人達は、やはり医学的判断でそれをやったと、問われれば、一言聞けば、十言くらいには返えってくきますよ、ペラペラと。こういう意味で、これは水俣病とは認められないと思うというふうに。それによって後は、環境庁に自分で申し出る以外にないみたいなことになっているわけです。
 そういった人達が、医学のデーターを全部自分で持っていて、公表しないわけです。ぼくの映画の中で、水俣病の恐さを知らせないというふうにいいましたけれど、みんなテレビがある限り、水俣病があることは、沿岸の人はみんな知っているわけです。しかし、私じゃないと思っている。すなわち水俣病の病象について、明らかな知識を与えてないわけです。これは、水俣にいくとびっくりしますけれど、水俣病のケース・ワーカーが、水俣病の病象について勉強するという必要を行政指導してないのです。ケース・ワーカーは、水俣病をほじくってくるなんてことはしないわけです。それから看護婦についても、水俣病のレクチャーを受けていません。それは行政としては受けさせていないわけです。病院では、自分のところにいる限りは、水俣病のことは知っておきなさいということはあるかもしれませんが。そういった社会的に、救済する責任が、当然あると思われる看護婦、ケース・ワーカー、生活保護士、そういった人達に、水俣病のレクチャーをしていないのです。まして、水俣病の患者が、水俣病とはどういうものですかと聞いても、医者は、それはいろいろあって一口には言えないみたいなことをいって、言ってこなかったわけです。だから、医学としての水俣病という映画をどうしてつくるかというふうにいいますと。これは、患者の切実な要求があったわけです。それは、水俣病は、なんであるかという、水俣病について、こういうものだったら水俣病かもしれない、水俣病はこういうものだというものを、我々にわかるように見せてほしいという要求があったわけです。
 ところが、その要求を、ぼくは医者じゃないから、やはりお医者さんにだしてもらう以外にないわけです。水俣病は、こういうものだと。それを要求しつづけて、三年間かけて、三年目に裁判闘争が終った直後に、例えば、今日みてもらったようなフイルムは、その一部ですけれども、水俣病の典型症状や、いろいろな症状についての資料が、名もない、ぼく達のところに手に入いることができたわけです。医学論文は、どんどんでているけれども、だれが医学論なんか、漁民が読めるはずがないわけです。だから、本当は県庁なり、県の衛生課なりが、「医学としての水俣」のような映画をつくって、「こういう症状がありませんか」と聞いて歩くのに使うべきだと思うのですけれども、していないわけです。医学者自身にも、そういうような行政指導は、してないと、看護婦とか、ケース・ワーカーにもしてないような県や市は、そんな映画は、市でもって歩こうともしないわけです。
 これが、水俣病を自分で、神経痛だと思ったり、老人病だと思ったり、あるいは、自分で、水俣病とはいいだせない、多くの人達をうんでいるわけです。
 この映画で四千人だといっていますが、原田さん(熊大医学部)とのブッチャケた話では、やはり一万人になるだろうというわけです。一万人患者がでるだろうと。それはどういうところからいえるのかというと、あそこの沿岸住民の人口と、食生活と、今の汚染の実体というものからみれば、そうなるわけです。漁を食べていないというのは、水俣の汚染地帯のフチだけで、すこし岬があって、水俣がみえないところでは、どんどんとって食っているわけですから、そういった実状では、木当に底なしではないか、今、沿岸住民一ニ万人といわれていますけれども、その中の仮に一割とみても一万人うまれるだろうと。そういったところまでいけば、チッソひとつでは、ささえきれるものではない。日大の工業界の総資本がよってたかったところで、一万人のものをささえられるものではない。やはり、日本の資本主義総体が、この水俣病を、ささえざるをえなくなる。だから、そういったものとして、医学の力を借りて、認定を極力締め付けていく、患者を浮かびあがらせないようにするために死力をつくしているというのが現状じゃないかと思います。
 それで、今は、千人をやっと越えたところですけれども、千人を越えただけで、チッソは水俣から逃げだす算段をしています。これが、二千人になり、なっていったなら、チッソは、我々はそうとうなことをやってきた、保障もできるだけやってきたと、我々は力つきて、みなさんにバイバイしますと、それをいっても資本家陣営の中では、それほどはずかしいことにはならないだろうと、自分達はやるだけのことをやったといって水俣を逃げると思うんです。
 その逃げるとき、政治的なピンチが水俣をおそうだろうと、患者に対する魔女狩りが始まるだろうと、特に、一見してみると、いい家をつくっちゃったみたいなことが、水俣ではいやな話として市民の間にありますから、そういう家の焼き打ちくらい起こるだろうとぼくは、いやな予感がしています。
 だけど、日本の公害を撒き散らした基本のものは、なにも直っていないし、やっぱり、カセーソーダ水銀を使わない方法にした方がいいということはもう何年も前からいっているけれども、今でもまだ五〇%を少しこえたくらいしか達成してないはずです。コストが安いということと、角膜法によるより水銀法によるカセーソーダのでき方の方が質がいいというこれだけの理由で、まだできていません。まあ、そういった資本の体質をみるとすごく絶望的になるわけです。それから、なお少し、言っておかなければならないと思うのは、社会主義の社会でも、官僚主義が横行している限り、公害は起こると思うわけです。これは、ぼくが映画をつくって、ソビエトにも行きましたし、これは人に頼んで朝鮮にも、中国にも持っていってもらいましたが、その反応をみると心から寒くなるわけです。
 それは、ああいう国の違いは、おかしな工場があったら、そのおかしい工場をまず止めて、対策を考えるという力をもっています。その工場をストップして、バイカルのそばにあったパルプ工場が汚染されたとき、そのことで劇映画ができているそうですが、最初にやったことは、まず工場を一辺ストップして、それでみんなで調べていくといったことで、そういうカは、社会主義にはあると思うのですが、あの官僚主義がある限り、それから”脱”工業化へ向けての憧れがあって、人間の原点を大事にした新しい技術の獲得ということをよくよく考えていかなければならない。
 そのようなことを考える思想ではあるのですが、そういうところに介在するところの社会主義の官僚的な人は、やはり資本家と同じような思考のパターンをもつだろうし、無賃任体系があるだろうしぼくは、起きるだろうと思う。社会主義になったらなくなるというものではなく。資本主義も、社会主義も含めたところの現時代の総価値観の点検をしないと、社会主義をつくったらなくなるという単純なことではもはやないだろうと思います。中国だって原爆をドンドンやっているように、そういうことではないだろうと。
 だから、やはり、公害を通じて獲得していくべき我々の新しい生き方と価値観の闘いの方向はものすごく新しいものだし、根源的なものだし、いままでのつくりつけの革命論では、できない展望をもつだろうという感じだけはするのです。それが、どのようなものかわかりませんが、そんなふうに思います。