映画塾への手紙 なぜ映画を作ってきたか ノート <>
 映画塾への手紙 なぜ映画を作ってきたか

 なぜ映画を作ってきたか、という自分への問いに、長い間、「他の表現ではし難いものだからだ」と自分に言い聞かせてきた。他の表現とは口頭での伝達から文字や写真やスライド報告、ビデオレターに類するものまであり、私はその条件により手法を問わずいろいろな自己表現をしてきた。かつては「映画人は映画でしか発言しないものだ」という先輩の言に頷くところがあった。映画に入って間もないころである。「いかなるテーマ、いかなる事象も映像で語れないものはない」。また、そう決めてこそ映像の可能性を広げていくことができる」。そう考えた。キャメラマン、録音を含む若い演出家、黒木和雄や小川紳介、東陽一、岩佐寿弥らと青の会をもった1960年代の映画論の前提には
とずくうかタブーが解けたきっかけは、映画より詳細に記録しなければ相済まない体験をもった場合である。かつては不知火海の水俣病潜在患者を訪ねた旅の記録を『わが映画発見の旅・・・不知火海水俣病元年の記録』という
 最近、オホーツクのロシア漁民の生活についてのルポを『されど海・・・存亡のオホーツク』という本にまとめたが、
 私にとって記録映画は私の資質をもいやおうなく形成してきた。また「あらゆるものを疑え」という言葉は自分内部にもむけられる。自分のラッシュを組み立てたり、ばらしたりして、地獄のさいの河原の石積みににた作業に熱し、また途方に暮れながら、わがひとりよがり(主観主義)から脱し、普遍的真実に迫りたいと格闘する。それが映画だと思う
 実作の現場にいようといまいと、いつか撮る次回作への石積みがあって私は生きられる。
 ドキュメンタリー映画のなかにおいての映画的思考が、私をささえている思索の連続線であり、それを抜きには、私の個人的存在理由は見出だせないところに来てしまった。