水俣の子は生きている 1965年 4月放映 <1965年(昭40)>
水俣の子は生きている  1965年 4月放映

<制作意図>
 
 公害の叫ばれる今、10年前の、戦後最大と言われる水俣病をふりかえって見る。
 時の経過は水俣病を忘れさせた。だが、病人がどこかで、身体だけではなく、心の深部まで冒され、歪んでいる。そのことに今の問題がある。再び関心を高め、公害の対する、その被害者に対する正しい態度をとることを訴えたい。
 主人公の新卒女子短大生は、この眼に見えない壁にぶつかりながら、仕事の意義をとらえ直そうと苦闘した。若さゆえの気負いと理想に満ちた生き方が、現地で音を立てて崩れそうになる。あらためて、職業としてのケースワーカーの仕事を組み立てようと努力しはじめる。
 この苦闘の記録を通じて、公害の意味と、患者への支援と彼女の門出への激励が訴えられれば有り難い。

1、熊本短大 
 
 私、西北ユミ、熊本短期大学二年生、ここから、毎年何十人ものケースワーカーが巣立っていきます

教室内移動

 この一年、水俣病に取り組んできた仲間の中から、私水俣病のケースワーカーになると決まったとき、気持のなかにひとつの区切りを感じました。水俣病の人たちに入院を薦め、いろいろな心配事の相談に乗るのが私の仕事になるのです

写真の患者。

彼女と患者

 熊本市と目を鼻の先にある水俣に工場廃液が原因で一生、不具になった子供たちのいることを知った時ほど驚いたことはありません。 去年の夏休みが、この子らと私との出会いでした。       

2、水俣の街  

駅前の工場 

 昭和40年 2月私は水俣にきました。私は学生時代の最後の1週間を、ケースワーカーの実習生として過ごした体験を報告したいと思います。
 その日も水俣は平穏そのものでした。                                                        

3、市立病院、進むカメラ 

 水俣の町でも、この病院の中でさえ、今は水俣病の匂いは薄れてしまっています。外部からきた私にはそれが意外でなりませんでした。                                                        
 水俣病は、工場から海にい流された水銀が原因で、それに汚染された 魚を食べたばかりに、付近の住民が脳の神経を冒され、33人が死亡、78人が生存ーその中には魚を食べたこともない胎児性患者もいるのです。しかし今は嘘のように水俣病の話は聞こえてきません。                    

隔離病棟にいれられ、人の眼に触れないる事のない患者たちー                                           

メインタイトル 『水俣の子は生きている』                                               

4、病院

挨拶まわりする彼女、            
                         
 病院の人たちは温かく、歓迎してくれました。 

(声)「責任重大だわ」         

2、女性患者室  

 実習二日目、私はいくつかの水俣病の病室を挨拶まわりしました。

(声)「私はこんどから、ここに勤めることになりました。何でもお役に立つことがあったらおしゃってください」。            

ベッドに隠れる女性患者

(声)「私は口がきけんで、誰ともあわん…昼はテレビを見たりして何もせん…」
                                                       
3、機能訓練室  

 こどもたちの手や指は去年よりずっと早く動くようになっていました
 その症状は重い脳性小児麻痺。そのものです。水俣病で冒された神経は死んで、二度と蘇らないと言われています。今は生き残った運動神経を育てる以外に効果を上げる方法はないのです。 

リバビリ訓練 

 不安な気持を抱いたままの私は、この子どもたちと寄添うことでこころを静めようとしていました。この子たちはすぐに懐いてくれました。遊び相手の少ないこどもたちだったのです                                                      

4、戸別訪問。漁村のなかへ 

 次週三日目、はじめて漁村を訪ねました。この一帯に一番、患者が多い のです。
 去年の夏、このあたりを調査した時に聞いた患者家族の言葉は私の心に強く残っています「病院にいれても金がかかるばかりで水俣病は治ったためしがない」。
 そう言いながら、子供を家に閉じ込める家族たち。その家族の私たちに対する態度は今回もやはり冷たいものでした

5、漁村ロング 

水俣病の巣になった漁村。魚の採れなくなった漁村。

坂道を下る彼女                              

 実習四日目、こころのどこかで臆病になりはじめた自分を感じながら…。いくら話していても患者の本当の気持や声が掴めないのです
                                            
6、ある路地

 この時期、私を歩かせ続けたのは意地だけでした。この家にはまだ一度も来たことがなかったのです。これまで診察すらろくに受けていない重症児でした。漁もなく一家が全員揃っていました。 

お爺さん

クドクドしい声。

胎児性患者

 パチンコの音。私は家中にしみついた水俣病の匂いに心を取られていました。会社からでるこの子の見舞金と生活保護を合わせても月一万一千円の生活、慢性栄養失調の一家。いったいこの子の悲惨とどれほどの差があるでしょうか。

 貧乏が原因で病院に入れない子ども…私が一人のケースワーカーとして、どこまで背負っていけるでしょうか。

学生時代の写真

 私が学生時代にしたかったことは人の役に立つ事。
 私が訴えたかったことしれは社会の責任ということ。                                                

7、渡辺さんとあう。浜辺

 実習五日目、私は患者の指導者渡辺さんに会うことができました。

(声)「あなたは前にきましたね…」

 この家に三人も病気のこどもたち。けれどもすこしも暗くないのに驚きました。私はこの老人から何かを得たい気持で一杯でした。一斉に発病を見てから三年、貧乏のどん底に落ちた漁民は「原因は会社にある」との医学者たちの発表を聞いて、一斉に工場に向かいました。

(声)私は小学校をビリから七番目にでたくらいの男ですが、みんなを40日も座らせましてな…」。

 患者の家族だけが座った。「工場の人にも市民にも応援を頼まなかった。水俣で工場にタテ突くのは大変なことだった」という老人。この老人を指導者として孤軍奮闘した患者たちの記録は二つのボール箱の中で埃をかぶっていました。                                                   
 水俣病はいまでははっきりした公害でありながら、会社はいまも原因をみとめようとはしていません。政府ももう過ぎたこととして補償の話にすら触れようとはしない。ただ、会社のわずかの見舞金で妥協しなければならなかったと老人は言います。それも卑屈なまでに低姿勢で会社に頼んだ末でした。

(声)「科学の発達のお陰で、人間は不幸になることがあってはいけませんな。

8、ある母と娘   

 実習の一週間、最後に私がたずねたのは最も重い九歳の子の家でした生活保護所帯でもある母子家庭。いままで子供がかわいいばかりに子供を手離せなかった母親。こうした人がケースワーカーにとって説得するのに一番苦手でした。しかし入院を決心したのです。                  

(声)「ほらやってみんばい、首あげて」

9、彼女のアップ

 この子もいつか大人になる日は来るでしょう。ただ、こうして生きていることが、この子にとっては激しい闘いなのです。
 私は水俣病に10年の歳月を感じます。しかし、その10年を生き、なおきつづけることを止めないのです

10、病院の子ら  

 あるこどもは私にいいました「ぼくの足は山の上から落ちてきた石で壊れたんだ」大人が聞かせたこの童話を信じている子らにいつか真実を話す日が来るでしょう。この子らの心まで水俣病にしたくないのです。