「撮る」ことへの果てしない手さぐり「優秀映画」4月1日号優秀映画鑑賞会
「撮る」とか「撮れた」とかよく私たちは言う。盗みどりとか演出と記録映画には、方法は豊富である。私たち記録映画に志すものとして、コップ一個にも十以上の表現、意味の興るカメラワークがあることも知っている。
しかし今回の水俣、そこに対象世界をかたちづくる絶対的真実、奇形化され、犯され、死者同然=犠物的生存とさえいわれる人々にカメラをむけ、撮るということ、撮れるということは一体どういうことかそれ自体、ショックであり、未知であり、隠されていた「水俣病」である。それが私たち自身の映画表現に易々としてうつしとられることを、私は映画固有の非情さとしてある意味でネガティブな弱さとして一度はかえさなければならなかった。
私たちが「水俣」を映画しようとするとその主人公が患者さん以外、その病気そのものの実体を明らかに具有する患者さんそのもの以外にあり得ないと思い定めるにつれて、映画には必ず、絶対に必ずつき当るであろう、何故、何のために俺はこの人々を撮るのかという問に日日つき当るだろうことを予想できた。
安心のうえに、同情することも、悲嘆することも可能である。しかし、それが、私の加害行為によって生れたものでその悲惨が、日々の無関心によって成立っているものであるとしたらとくに水俣病は、われわれが存在延命でき、愛していると思われる「資本の繁栄」によってたれ流された毒による波紋、毒害であるのとき、その全身に毒をたたえて、死ぬべきはずの受難にたえ、いまも生きることで、生体の抗議ともいうべき強烈さをたたえている患者患児を、私たちは美しい全人間な存在として表現せずにはいられない。
その生い育つ人々は生きるがゆえに闘い、生きるがゆえに怨み、生きるがゆえに、根源的な「世なおし」を求めつづけるにちがいない。逆にいえば、水俣病発生以来、十八年間、資本、チッソ、県、国といった権力の系統は、本能的に水俣病が、通常の業病や難病とは全く歴史的にも社会的にもその原因を新たにした、人間による人間の大量殺害、その前触れであることをそれが水俣という僻地であったのを幸いに、全刀をあげてかくしつづけた、埋葬したかった「事故」であった。
ゆえに、彼らが生きていくことに根源的な恐怖をもつべきであり企業とその存続まで当然考えることであったはずである。それをしないがゆえに、映画は、その患者二八世帯(訴訟派)全員をもれなく記録する方法もあえてとらざるを得なかったのである。
こうした私たちの選びとれた基本的な方法は、映画以前の「水俣病」に対しかかわりをもってきた人々の運動、現地の「水俣市民会議」熊本の「水俣病告発する会」宇井純氏の個人的な闘い、石牟礼道子氏の文学的事業のすべての成果から得たものであると患う。運動がかくも全く必然的にかくもむすびつかざるを得なかった映画は私の歴史の中でもなかったし、希有のことであろう。いつも、時代の私的証言者であろうとした者にとって、このものの意味はまだ反芻に余るものがあるのである。