幻視の「党」を求めて顧みて、いま-戦後30年の検証-8 『東京新聞』 7月31日付 <1974年(昭49)>
 幻視の「党」を求めて顧みて、いま-戦後30年の検証-8 「東京新聞」 7月31日付

  映画に入って十八年、私は「水俣」までに至る映画歴は極めてわずかで年に一本にも及ばない。そしていつも”前衛的”ではなく”後衛的”というか、雷の走り駆けぬけたあとの落球を拾い歩いている気がする。時代を予感し先端を切るという鋭気と方向感覚は鈍い。
 戦争の終わりを茫然とむかえ、あらゆる価値観が音をたてて崩れていくのをまのあたりにした時、その時を待っていたように獄中十八年、亡命何年の共産党員が日本共産党を再建した。私たち戦前に接触すらなかったものにとっては「まぶしいもの」でも「畏敬」に価する同世代の革命家でもなかった。だが大人が一斉にマルクス主義をかたり始め、戦争責任のことばは共産党への帰依に結ばれ、私たちにもオルグは及んだ。戦争責任など負うべくもない私たちであるが、敗戦を機に、かくも一夜にして変身する都会人、インテリゲンチャーの出現に、むしろ保守的、右翼的にすらなった時期をも持った。変わり身への嫌悪というか、すばやい転向への憎悪がなま身について、マルクス主義に次第にあこがれを増しながらも、戦争中の御荷物をどのようにふり切るかにまよう。時流に二度とのるまい。ベストセラーは読むまい。徒党は組むまいといった私的十戒のような意地だけで耐える日々であった。
 大人が大人たるだけで信じられなかった。中学時代の英語教師の転身しかり、大学の教授も同じであった。早大専門部法科に昭和二十一年に入学した。だが法科で教える最大の眼目の憲法は当時、制作中で、なかった。教授は旧六法から不敬罪や皇室典範を抜いてガタガタのカリキュラムを喋って時間をつぶしていた。それぞれ時の大人は人生を戦争によって二つに背骨をへし折られてきたであろう。知識人はことに転向をかかえて苦闘したであろう。しかしこれを私たち世代が寛容にゆるすとしたら、不変の価値とか人間性そのものを内に建立する精神の作業を自ら捨てることになるのである。
 私が水俣から身を転じ得ないのは義務感でも何でもない。つまりそこのところを水俣の胸をかりて修業できるからである。そして転身はやはり何といっても私にとっての駄目につながるのである。
 私は日本共産党に入るのに2・1ストの挫折が必要だっった。理由はない。一見上り坂の戦後のの革命的ふん囲気の終わりに、連れそうべきものとしての党を感じたことである。朝鮮戦争ただ中の党分裂の中では非主流の分派の中に身をおいた。その選択のうらには、どっちの人間が本物かという、およそ主義主張とは関係ない生き方への私的評価が基軸となって働くのでぬる。その習性は、決して人間正義でなく、転身転向のむずかしさを戦争を中心に怖いほど知っているからである。
 戦後のほぼ十年を、私は学生運動と日中友好運動の下働きをして過ごし、日本共産党員としてその末端で党生活者として生きた。今、党籍をもたずとも私には「党」が必要だし「党」の形成を強く求めつづけている。私は現実の中で、真に闘った時期、友と共生、共死を思ったとき、幻覚のようにみずみずしく生き動いた「党」の原形質の感触を忘れたくない。それはいつも、下部組織の中の自発的で集中的な行動のとき現れたし、ひとびとの中で絶体絶命のかかわりと闘いの中で、未だかつて見ない質の人間の闘争集団の形成、つまり「党」なるものの原基形態を目撃して来た。そのわずかの体験にかいまみた「党」ゆえに私は、戦後の価値観の転倒が、いつかは深化し、激化し、部分的にもせよ真の変革として成就し、そのために、自分の戦争体験を「そこで終わった」といえる一瞬に立ち会えるかも知れないという願望を捨てることは出来ないのである。
 何故、映画を選んだのか?何故革命家としてでなく映画であったのか?岩波映画に入ってから、会社の望む大スポンサーのPR映園を作りながら、その矛盾に狂うとき、私の友人黒木和雄(映画監督)と語りながら、彼からいつもくり出される設問はそれであった。彼も山村工作隊出身者である(私も同じ体験をしてきた)。「男子一生の仕事として、映画はそれに値するものなのか」そんな設問にキッと思いの流れを止める作用をするのも、昭和一ケタ派の固有の共通点かも知れない。今日、映画を選ぶ前も「映画」であったか、文学であったか、ジャーナリストであったか、いずれにせよ、映画はまさしく選びとられるべくして選びとれた人々が多い。それは私たちより若い世代の人々に共通している。私は映画で何か事を起こしたいと思うのであって、映画そのものが、完結した自己世界になることはないのである。もし出来うべくんば、映画と人々との中での仕事・・・つまりかって、キラリと一瞬目撃した幻視の「党」なるものと重なったところで映画作りの人間として生ききられたらとの思いが、まずある。がそれは決して既成の党派的映画人や党専属作家のそれと無縁であることは分かっている。
 私の希求すする映画の作り方とその中での生き方はあまり見本のないものである。わずかに小川プロや、黒木や、青林舎の活動の中に散見するにすぎない。しかしそれらにしても、世にいう「新左翼」というかこいこみから放れた思想につき進んでいるといえるだろうか?世にいうコミューンの粋でからめとられる範囲をつきやぶるべく映画とその生活幻視の「党」とむき合わせているであろうか?少なくとも私にとって、未だ否、未だ到らざるはるか遠い地平のすがたでしかない。