「わたしの映画の原作は…」 ノート <1989年(平1)>
 「わたしの映画の原作は…」 ノート

 映画の仕事をしているとしばしば「次回作の予定は」とか「暖めている企画は」などと聞かれることがある。そのように絞り込まれた話など有ろう筈がないのだ。夢でも希望でもいいからブチ上げてみよと言われてもグッと押し殺してただ頭を掻いて即答を避ける。聞く方にとっては無理もない。話題作の賑わいにのせて、「構想十年ここに完成…」とか「原作の映画化権を取ってから永く寝せ、紆余曲折をみてようやくクランク・イン…」などの宣伝コピーが踊っているからだ。その場合、文学作品や記録文学などですでにひとつの表現として確立したものの映画化であることが殆んどだ。映像としての試みに意欲を燃やすに足るのもであり、読者の空想を刺激してやまないものだ。ハリウッドの鬼才キュブリックは「映画の第一はストーリーだ。そのために世界の新作小説のダイジェストを毎日何十編も目を通す」と言う。日本でも「一筋、二ヌケ、三役者」と言われてきた。ヌケとは画面の調子の良さをいうが、一番の成功因子は筋、つまりストーリーにあるといわれてきた。劇映画の世界では新人監督のデビューがオリジナル・シナリオであったためしは数えるほどしかなく、それも個人映画的な仕事か自主製作であって、映画企業の傘下でそのようなオリジナリティーが尊重されたというような美談はついぞ聞いたことがない。昔は新聞の連載小説、いまはコミック雑誌の劇画が原作として争奪合戦を演じられる。ストーリーは映画の生命と見なされていることに今も変わりはないのだ。そのストーリーはすでに基本的に大衆性を獲得しており、題名からして知名度をもち、映画企業にとってはまことに安全牌だ。しかも映画監督にとってのその話題性、あるいは“大作”性は、興行成績についての危惧を減らしてくれるし、その分だけ芸術性の世界を構築できよう。映画作家は自分の映画化したい原作を手にしたならば、次回作はこれこれです、と胸を張って言うべきだし、それを口にすることから実は映画行為は始まっているのだ。だが記録映画の場合、原作なるものはない。「次回作は?」と聞かれるなら「何を作って欲しいかおしゃってください」と答える。その課題性の中に“原作”が埋まっているはずなのだ。
 記録映画は発見の芸術だといわれる。シナリオは、仮にあっても、ドンデンかえしになることを実は待望している。意外性の面白さと言うにとどまらず、人物なり物なり或いはできごとをカメラとマイクで凝視し耳を傾けるとき、あらかじめ予定し想像したものと違うことの方がむしろ当然といえる。変化とか変容、反対のものへの転化などが法則的にたちあらわれる。例えば水俣病患者が悲しみに包まれているものとして撮りながら、それが人間的に眩しいまでにキラキラとした存在にみえ、明暗の片面、つまりその悲劇性の面だけに感情移入しようとした自分達が矮小な存在になったりする。そんなとき屈折していただけに哄笑したいほどの放たれ方がある。それが巧まずして映像に写し撮られるとき、ドラマが生まれ、それを核としてストリーも形づくられる。この“運動”自体が面白いのだ。これは記録することと“映画する”ことに必ず存在するもので、どんな話の場合に限られるというものではない。どんなテーマであろうと記録と映画の方法があればその面白さに巡り合えるのである。そんな楽天性に支えられなかったら、ヤッテラレル仕事ではない。つまりなにか“もうけ”がある。それは単純に映画として何かを“私有”し得た喜びなのである。だがそれには各人各様の“私有”のための運動が工夫されていなければ、巡り合いのチャンスを逸しよう。私の場合劇映画の“原作”に匹敵するものを見つけたかった。二十年前、ふとしたことから始めた新聞の切り抜きがいまでは六〇数テーマのべ千二百冊を超えた。アジア、世界、さまざまの日常記事から原発、汚職、女性問題まで。だから「何を作りたいか」と聞きたいのだ。その話がスクラップにあればそこから“原作化”の作業が始まる。そんな癖が高じて、切り抜きの記事だけで原発を考えるためのテキスト・フィルム『原発切り抜き帖』なる映画を作ってしまった。そして少し儲けた。
 人びとの求める映画ならナンデモゴザレ位の雑食性がなければ映画を撮るチャンスなど回ってくるはずがない。そのためまだまだ切り抜きのテーマを殖やし、ポッケトを多くして、あらゆる話を映画に撮りたいのだが、青年老い易く、学成り難しで来年は還暦を迎える。「ああ、“原作”つくりが十年遅かった」とときどき思う。そして今も、皺だらけの札を伸ばしてほくそえむ守銭奴のように、鋏をかざして古新聞の切り抜きに励んでいる。