フィルムを1フィートもまわさなかった私たち 『愛児に楽園を』 No.17 <1974年(昭49)>
 フィルムを1フィートもまわさなかった私たち 6月15日 愛児に楽園を No.17

 僕は、ホントいうと、映画を追求しているのではなく、映画というものをテコにしていろいろな人に会いたいということが、主な気持なんです。ですから映画が人に会うことの妨げになるんだったら、僕は映画をわりと捨てる方です。映画に撮らなくていいと思う方なんです。
 たまたま映画の道を選んだというのは、何処にも行くあてがなくなったのと、もう一つは記録というものが、日本に二・三抬頭して、こういう映画ならやりたいと思ったのです。僕が映画に入ったのは日本の監督では、最も遅れているらしいんですけど、28才で入ったんです。
 僕は非常に目が悪いんです。目がその当時だと35才でつぶれるというような悪性な目だったものですから、目のあるうちに映画というものがあるならやっておきたいということで映画に入ったわけです。
 映画に入るといってもあんまり知り合いがなかったし、大学も卒業してなかったし、年をとっていたものですから、岩波映画というところにたまたま知り合いがいまして、その人の推挙で入ったということです。羽仁進って人がいまして、非常にあの人の映画が好きだったものですから、ああいう映画なら作りたいと思っていたんで漠然とは知っていたんですけど、入ってみたら九割の作品が、大資本のPR映画なんです。
 なかなか考えている映画の方に話が向かなくて、生活の事もあってシコシコやってたんですが、なんていうか飢えとか渇きみたいなもの、人間をテーマにしたものを撮りたい、つまり鉄やダムそういうものじゃなくて、ホントに人間監を撮りたいということだけ考えてました。人間だったら何でもいい、人間国宝のテーマでもいいし何でもいい、つまりそういった素材を撮れる事で自分の道を開きたいと考えました。
 日本にはホントの意味でのドキュメンタリーつていうのか生まれ方が非常に遅くてですね、これは完全に戦争と関係ありますけども僕たちが手本とするドキュメンタリーつてのは、やや起って来たけれども、その先駆者達が劇映画に行く。何で劇に行くのかと開きますと、記録映画ではどうしでもこれから先突破出来ない事がある、劇映画だったらその点自由にできるからやる。
 つまり自分のイマジネーションなり自分のモティフが劇映画の方が発揮できるという事で納得していたわけですが、僕は生きてる人間の方が俳優さんよりずっとおもしろいし、生きてる人間から学び取るものは多い。もう一つ僕は、現実に僕達が考えた映画の上のシチュエーションとか映画の上のいろんなコトバより、実際の生活の中にあるアクションとか、コトバとか音とかそういったものは、はるかにおもしろいわけです。そういうものをキャメラに切めとってくると、余計自分達スタッフの意志を要して非常に違った感じで見えてくる。この線上に何かないはずはないということで、やって来ました。

 土着の方法としての特講

 山岸会について、最初に知ったのは確か「思想の科学」じゃなかったかと思います。それから朝日のある記者で、宇佐美という人がいますけども、確かあのレポート(朝日ジャーナル)読んで僕はいろんなことを考えたんです。
 僕は特講ということしか興味なかったんです。特講というのはやはり、これは今まで僕たちが獲得したことのない資質をもっているのではないか。人間誰しも自分の考えを調べ直して、突破して自分を変革して行くという事を考えるけれども、そういうことに本当に耐えた組織があったか。さっき少し言いましたが日中友好協会にいたので、かなり初期からの中国文献は、ガリ刷りなんかでむさぼるように読んでいたわけです。けども、中国のいわゆる三風整頓とか百家斉放とか、ああいった時代の文献の中で、やはりボルシェビキ的特性とか、自分自身の改造とか、そういったことを相互批判、自己批判とかがどんどん出て来た時期ですが「ここには何かあるな」と思ったです。
 それから共産党の学習会とか相互点検とかがありますが、それはそういう風な形では僕はつかめなかった。僕は政問題よりも人と人とがどういうふうにつながるがという組織問題の方が好きなものですから。少し不確かですが、ずっと前その当時読んだ本で、レーニンが党の規約を作る時に、何に心を砕いたかというとですね、「絶対に偉くならないこと、絶対に官僚にならない方法をあらかじめ党として作っておこう」という文があります。それは、いかなる機関の長たるもの、責任者、キャップ、国の党首でも、ニ選までは出来るが、三選は出来ない、ということを決めてあるわけです。それからある同志が間違を犯した際の査問の方法を決めてあるわけです。査問というのは、問いただすということですね。その査問の方法は絶対に思想闘争として組め、ということが中心にうたわれてかたように思うんです。
 文化大革命前後の中国のことはあまりよく知りませんが、中国では「思想を憎んで人を憎まず」ということが芯にあったと思います。コミュニスト達は、洋の東西を問わず、人間を徹底的に洗いざらい吐き出し合い、ぶつけ合えば、必ずそこでその人間が変わる。ということは、人間の長い間の革命をやったりする党派的な、党派でなくとも、そういった人を裏切れば確実に味方を売るような、激戦に耐えてきた仲間の試し方というかつながり方では、絶対にまず教育的な徹底対話の方法が頭にありました。
 ところが日本ではそういう事がなかなか出来ない。やはり僕がいわゆる党らしいものを今でも信じているというのは、それはやはり一緒に飯を食い、あらゆることを話し合って、知り合った中から生まれてきた事であって、決して党会議とか何とかで生まれてきたことではないわけです。そうするとこの山岸会の方法というのはー怒りを抜くというのはあまり本当に解っていないのですけどー恐らく特講の中の徹底的な対話性の中に本当に、人が変りながら見つけていく何かの非常にすばらしい構造があると思ったわです。
 これはどういうふうなコミューンを作るにしても、あるいは党派がそういったものごとを考えるにしても、この方法は、かなり日本で土着のものだし、しかも農民の中から生まれて来たし、そういうものを見ないことには、他の国の借りものの哲学とか、組織論ですねー他の国と言ってはおかしいですが、思想のベクトルがある程度、画然と違うところの西洋ベクトルなんか持って来てやっても始まらんと思うわけです。

 特講は映画に撮れない

 それを何とか見たい。見るなら見に行くだけでいいんですが、僕は映画で撮った方がものがよく見えるんです、大体のことは。というのは、その中で撮るということから絡んで、ものすごく凝視力を必要とされるわけ。それとかなりいろんな人間関係がでて来る。
 そういうことで、キャメラをもってものごとを撮るというのは知る方法として僕としては一番肉体的だと思っていた。で、山岸会へ行って相談したわけです。それがなんというのかなあ、許可したんですよ。特講撮っていいと。僕は特講というそのことだけに興味があったのですが、春日山の子供の家を見た時に、おとな達は非常にオンボロな所にいるし、子供の家もオンボロなのですけれども、基礎だけは将来相当どでかいものが立つだけのコンクリートが打ってある。これには非常に感心しました。もう一つはですね。鶏を見てビックリしました。鶏のあの群を見て。その足の太さとか、気だてですね。鶏はケンカしないし、糞が臭わないですね。
 で、こうい鶏が出来るのは、何だろうかと考えるわけですが、その間のつながりは別として、特講は是非撮りたい。そういうことで山岸会との最初のかかわりを持ったわけです。テレビ局もこれがもし撮れたら、ドキュメンタリーとして画期的なことだということで、普通の3倍位の予算をくれて人間も、普通2人なんですが、3人で、テープもふんだんにくれましてですね、ともかくやって来いっということで意気揚々と山に上ったんです。けどもなかなか話に単刀直入にいきませんで、一部屋のところで飲んで、時々来る山岸会の人と話しながら特講をどう撮るかという話をしたのですが、日にちがだんだん迫って来て、いよいよ明日から始まるという頃になって、山岸会も撮らせるというし、僕らも撮りたいと言うし、何人か頭をそろえて撮っていいですよと言ったものですから、これは本当の話なわけです。ところが「あなたがたは山岸会に来て、特講を撮って、皆が円座を組んでやっている時に、あなは方どこら辺で撮られるんでしょうか」ということになって、「おじゃまにならないところから撮ります」といったし、「ああそうですか」ぐらいで終りまして、次に、「あなたがたは特講の真理もつかまないでキャメラ回せるかしら」という話になる。「ああ、それはそうだから特講受けましょうか」ということになって、みんなで特講受けることにしたんです。
 そして、それならよろしいという事になって、いよいよ「じゃ、特講受けよう」なんてスタッフで話して「我々も一ぺんむけよう」とかなんとか言ってーむけようと言うのは殻をむこうーおまえはちゃんとマイクをまわせ、おまえはキャメラをまわせ、俺は合図するなんて片一方で言って、エライことになったなと思って、その辺から僕も少し頭がおかしくなってですね「これはどうも撮れるのかなあ」ってなことを考えたんですけども、特講の日になって(特講の日の前だったかなあ)特講というのは本当にある瞬間が来るとー(怒りの研鑽ですか、あるいは二日位たつと)-みんな心の中が全部自分から知ってもらいたいということになってくると今まで黙っていた人がバアーっとしゃべれるようになってね、それはものすごいと、「その時、あなたがたはどうしていますか」と言うわけなんで僕は特講受けますと言った手前そういうふうになりたいと思うけれども、その時きっと僕はキャメラは回らんだろうと、テープを回すことも忘れるだろうと自分が思ったわけです。
 で映画の連中とですね、結局特講とるのを止めたと、これは撮れんと、やはり相当修業を積まないとこれは撮れない。やはり撮れない。(笑い)という事でデスクに電話しましたら「そんなバカなことがあるか」お世辞で「お前ほどの男が撮れないものがあるというのは考えられん」って言うけれども向うがカッカ怒っているのに僕は笑っているだけでエヘラエへラ(笑い)。僕はフリーでしたけれど一緒のキャメラマンはNTVの人で、僕に言ってもダメだと思って、キャメラマン電話口に出せというわけでやるのですけどそいつも何とも言えない顏で笑っているだけで、辻襟の合わない事ばっか言って向うを怒らせていたと思うんです。
 結局、10日位いて一フィートも回さず帰って来たです。テープもこれっぱかりも回っていないです(笑い)。それで帰って来て、ひと番組穴をあけたということがあるんです。その時から僕は特講の中に何かあるということは、受けていないだけに、自分の中に想像力としでふくらませているものはかなりあるわけです。

 記録映画に監督はない

 「パルチザン前史」というのを今から何年か前つくった時から、水俣とか、かれこれ五年位なりますが、ほぼ同じスタッフでやっているわけです。そのスタッフでなければならんというふうじゃなくて、どういうふうでもいいのですけれど記録映画というのに監督はあるのか、というのが僕の疑問なのです。
 監督的作用をしていますけど劇映画と全然違うわけですね。ある対象がありますね。ある対象があって、それについてここはこういうふうに撮ろうかなと話していますけども、キャメラが行くと変っていくと思うわけです。もともと違ったものを、僕たちは誤解したことの方が多いわけですけども、キャメラが行くとキャメラがあるということで変ってくることだってあるわけですね。いろいろ判断が、現場の判断というのは決めたことがほとんど通らないのが実状なわけです。
 そういう時には、その時の集中した判断で何をどう撮っていこうということを決めなきゃいけないんですが、その時は言葉にならんわけです。キャメラマンとの連絡が。例えばそれをアップに撮ろうとか、ロングに撮ろうとか言っても、何をロングに撮るのか-それは大体わかりますよ、あっちの方角とか、こっちの方角だとか人はわかりますけども、何の思いでその人を撮るのかということを伝達できないわけで、口では言葉では。それをつくるには、一種のスタッフ間のものすごいテレパシーがないと、できないわけです。何を今瞬間に撮るかということを相互につかんで、わかって行く。逆に言えば、キャメラマンが撮りたいものを、僕がわかって行く。録音の人が採っている音についてそばだてていく。そこに全体のもっている感性が全部動員されたのを、どういうふうにして一つのフィルムなり音なりにして行くか、というようなことばっかりなわけです。
 そういうことをやっていますとスタッフとつながることはできないわけです。キャメラの先生、録音の先生というふうな形でつながっていたんでは、技術の交換になるだけで、同じ横並びの構造ということにならないわけですね。基本的には合宿形態をとるわけです。同じものを食って、酒をあびる程飲んで、そこで言いにくい話も全部言ってケンカしたりあるいは非常に馴れ馴れしくなったりしながら。そういう事を一つの作品で数ヶ月くり返しているわけですね。そういう中で映画のスタッフは全体として動いて行く。この中で、映画の経験が古い新しいということはありますよ。ありますけどですね、昨日入ったような助監督の人の方がはるかにある感度をもっていることがあるわけです。僕よりもっと新鮮に事態を発見するということを持っているわけです.ところが、監督が一方通行で見方が正しいとか。俺の感覚がこうだとか、こんなふうにデフォルメしたとか何とかと能書き言っている間にものごとがどんどん過ぎてしまいますね、そうするとやっぱり一番シャープなものをもっている人間がその時の監督なわけですよ。それをやはり拾い上げていけるような体制を僕は経験上もつというようなことで記録映画の監督は誰でも何と言うか、かぶせることのできない責任のあることは知っていますけども、現場の行動様式としては完全にスタッフ全体が動いて行くというのでなければいかんと思います。そういう組織論は、実を言うと、僕はどこかで山岸会に学んでいると思うんです。それは理解している山岸会であるわけですけども。


 映画を撮る基本

 記録映画で盗み撮りっていうのは絶対しないっていうふうに思っているんです。隠しキャメラですね。遠くにいる人を遠くから撮るということは絶対にしないと、但しポリ公は除くという事になっているわけです。ポリ公はそういうことがありますけども、仲間は絶対にそういうふうに撮らないというふうに決めているわけです。
 それは割と単純なことですけど人がやっぱり油断している時、その人を撮っちゃまずいと単純に思いますし、それからキャメラが隠れている時に人はナチュラルだなんて思いません。それは他のことにかかわずらった顏をしているんで、キャメラがあるから気取るというんじゃなくて、例えば美人がいたら皆さん気取っているだろうし、ナチュラルな顏ってものがどんなというのは、僕はナチュラル一般の顔なんてのは信じません。だからキャメラがあってある顔が僕にとっての映画の顏だろうというふうに思っています。ですからそうなりますとですね山岸会みたいなことが起きてくるわけです。つまり撮れないということも随分あります。撮れない場合には、とことんまでの理由は僕がつかんでいます。それを撮ったら、撮ることは技術的には可能ですけどね、それを撮ったら一番大切なものがこわれて、映画全体の上で一つの最も大事な思想がなくなるというふうに考えた場合に撮りません。結局、それが、でも、できるだけ撮りたいと思うわけです。出来る限り可能な限り煮詰めてみたい。つまり映画によって煮詰めてみたいと思うわけです。これは僕は相当しつこい方だと思っていますけど。結局映画を撮る碁本というのは人との関係のしかただと思っているわけです。水俣にせよ、人との関係のしかたを自分達が何をしたいかということをさらけ出してですね、それが、その映画を撮ったことをですね、その撮られた人達の敵になっていくような映像については、撮られる人はキャメラこわしますよ。絶対に。向けたキャメラはですね。僕は今までのところわかったキャメラで回していったなんて言うつもりないんです。例えば水俣の患者さんにしろ、学生運動にしろ、あるいは他のいろんな場合にしろですね、向こうの人が僕達をわかってくれて理解してくれて撮ったとは言いません。しかし少なくとも敵にするということはなかろうというだけの話はして撮っています。(紙面のつごうで、土本さんの講演の半分くらいになったことをおことわりします)