記録するこころざし 映画『医学としての水俣病』をめぐって <対談> 『ナースステーション』 1月10日
記録映画の方法
平山 まず,映画をつくる過程で,監督さんの仕事というのはどういう機能を果たしているのかということを聞かせていただけませんか。それからももう一つは,記録映画とは何か,いろんな映画の種類がある中で,どういう特徴を持っているものかうかがいたい。例えば映画の第2部では,病理のプレパラートを映しているところが画面に出てきたわけですけれども,私としては,もっと鮮明にその画面を見たいと,見ている最中にそういう気持になったんです。これは科学映画じゃないからなのか,あるいは特殊なカメラがないからああいうふうにしたのかとか・・・。
土本 記録映画とはどういうものかということについてまずお話させてもらった方がいいかと思うんですけれども,劇映画と記録映画というふうに,大きく分けて2つのものがあるとすれば,ぼくは記録映画の方をやっているつもりです。ぼくはやはり事実を見ていく方がおもしろいというか,事実の方が自分にとっては劇的なものを感じる。ぼくの場合には,記録映画でやりたい仕事というのは,1つの事実をはっきりと提示し,その中にぼくなりのドラマをみつけていく-かといってぼくの見方に同調して人がものを言うんじなくて,やはり映画に出てきたものを素材にきちんと対話ができるというか,そういった構想の下に仕事を,特にそれは映画でなければできない方法と分野でやりたいということなんです。水俣病の場合には,文学では石牟礼さんがあり,医師の歴史資料では宇井純さんがあり,写真家ではユージン=スミスとか,いろんな人の仕事があります。しかし映画はまた別のベクトルではっきりと資料として必要な,記録として必要な仕事があるのではないか。
その中でも監督の仕事というのは、みなそれぞれ流儀があるんですけれども,現場ではもう監督という仕事は放棄しているんですよ。ほとんど何しろ,こうしろと言いません。ああしろと言っても,その場で状況が違ったり,ぼくの考えが至らなかったりする。ですから毎回現場で変更していくし,ああしろというんじゃなくて,こうしようかという形ですね。ただ,大まかにこの映画が何を撮っていくのか,そのためにはどういう条件が要るのか,どういうう人が登場し,どういう素材が要るのか,そしてどういう質問をすべきだろうか,さらに,撮ったシーンをどう評価するのか,どう構成するのか,そういった全体の仕事はありますけれども。現場を恣意的に規定していくという作業は,特に記録映画の場合はしちゃいけない。するとその範囲だけの追求で終わってしまう。つまり自分たちがAという答を出したいと思うでしょう,そうするとAが撮れたらもう終わっちゃうわけです。それでは本当のものといえない。
平山 映画の中では監督さんがみずからインタビューなすっている。あれもやっぱり,こうしようかということで,やらざるをえなくなったというわけですか。
土本 そうです。病理なんかの材料で鮮明度が欠けているというのは,おっしゃるとおりで,初期の急性期の水俣病の資料づくりは大体34~35年で終わっているんです。その資料をいまだに使っているわけです。その後はぼくの映画が終わってからまた始めたようですけれども。
平山 私の言っているのはそういう意味じゃなくて,そのプレパラートそのものを直接見るような形で,顕微鏡でのぞいたような形ではつくれないんですか。
土本 それはできると思います。
平山 それをやらないで,説明する先生と監督さんが話しているような形にしている。あれは何か特殊な意図があったのかどうなのか。
土本 その場合の多くは静的な標本だと思うんですよ。映画で見続けていなければいけないというものじゃない。例えばガンなんかだと接写リングをつけて,コマどりとかして,増殖していくところを動的に撮る,これは必要だとなったら,お金がかかってもその方法はあるわけです。ただ静的なやつの場合は,それをどういうふうにお医者さんが見るのか,どういうふうに説明してくれるのかに焦点をあてた撮り方に,全部強引に統一してしまったところがあるわけです。静的な標本は,副読本とか,あるいは資料的な写真を五時間でもながめていられる方法があるわけです。映画の場合にはそうもいきませんからね。やっぱりある種の省略がありますね。それはでも静的な,ほかのメディアでも見ることができる-あるいはほかのメディアの方がいいと思われるものに限ったつもりですけどね。
平山 純然たる学術映画か,それから見る対象をどこに置くかということによって,省略の度合いは違ってくるんですね。
なぜ撮ったかー水俣の今日的状況のなかで
土本 水俣病の患者はこうですよと,今どういう状態に置かれています,苦しみはかくかくのものです,というふうな,いわばフィルムードキュメントというか,ヒューマンードキュメントでそれを描けばぼくの役割としてはそこまでだと実は思っていたんです。つまり化学にも弱いし医学をにも弱い。そういう点ではもっとちゃんとした人が専門的追究を続けてやっていただいたらいい,というふうに思っていたんですけれども,ぼくらの映画のやり方というのは,作ったあと上映までやっていくでしょう。その中でいろんな質疑が出るあげです。やっぱりそれにこたえなければ,ということになる。最初『水俣一患者さんとその世界』というのを作ったとき,ちょうど裁判が行なわれていたものだから,裁判の方の運動からも,フィルムや医学資料を出してほしいと言われてたわけです,大学の先生方が。ところが,裁判に学問は影響を与えちゃいかんという考え方がどこかにありまして,提出しないという約束ができたものですから,ぼくが貸してもらえるわけがなかったのです。それでぼくとしては憤まんやる方ないまま,結局社会ドキュメントとしてまとめてしまったわけですね。だからぼくの医学の観点といえば,全く通俗的な,文学的な概念でしかなかったわけです。今でも基本はまちがってなかったと思うのですが,勉強していなかったわけです。傍証がない。でも水俣をしばらくやっていると,容易なことで突破できる壁じゃないことがわかる。今まで私も医学をある種の敵視して見ていました。-水俣病にかかわってきた医学の欠点を見過ぎちゃったというか,また自分自身がそういうふうに思い込もうとしたという点もあったと思います-もういっぺん根底から立て直すにはぼく自身時間が必要でした。で,医学のことをやろうと思った。医学的な興味もさることながら,患者さんにとっては治るものなのか,治るとしたらどの程度治ってどういうことが大事なのか,あるいはどの程度治らないものなのか,そういったあたりを科学的に知れば,患者さんだけじゃなくてだれにでも力になると思うわけですよね。知らないで言っているのには限度があるけれども,知り抜いてしゃべったら,力になるだろう。そういう医学的な映画を撮るのはぼくが適当かというと,あまり適当でないというふうに自分で思いますけれども,その条件づくりはぼくしかできないなというふうに思ったんです。
ぼくがそのときに立てた考え方としては,これは水俣病のあくまで中間報告でしかないし,ぼくの仕事は今後水俣のことを研究されたり,いろんなことをやられる人たちのための資料づくりの一面だと思ったわけです。最低限,資料を完全に映画的に残しておくということですね。なぜ特にそう思ったのかというと,裁判の後どうするかということで,石牟礼さんなんかが盛んに頭を痛めて,水俣に水俣病センターというのを造って患者さんに使ってもらう,そこに医療室とか分析室とかと同時に資料室を造ろうとした。今までは資料公開の場所が1つもなかったわけです。市役所でも資料は大学に行ってくれと言うし,大学は見せる人には見せるけれども,見せない人には見せないし……。公的に資料が保存されているへそがなかった,そのへそというものを作らなければいかんと。そこで,じゃぼくは映画をやりましょうということになったんです。ぼくの撮ったものはすべてそこにはいる,歴史的にはいるという目安があったものですから,映画としてまとめるののだいたい7~8倍のフイルムを撮ったわけです。もう1つ言及したいのは,監修者を置かなかったということです。監修者を置くとどうしてもその監修者の意見でながめる。ところが,評価はどうあれ説が分かれているというのが実態でしょう。だったらともかく今は分かれている説をそのまま出すよりしょうがない。ぼくは歴史的にはどっちの説の方が正しいだろうと思うけれども,あえてそれだけで作ってしまったんじゃ,こぼすものが出てくるだろう。10年なり20年なり後の時期に新しい学説が現われてくれは,そこで決まるものは決まるはずだ,だから監修者は置かないと。で,先生は各自自分の得意なパートをどんどんしゃべってもらうという方法にしたわけです。
平山 学説が分かれているというのも事実だから,それも記録するという意図ですね。
土本 そうです。
討論のベースにしてほしい
平山 そうすると,あの映画を通してどういう論争というか議論が起こることを望んでいらっしゃるんですか。
土本 水俣だけじゃなくて,各地で水俣病様の患者が出ましたね。そういうときにベースとなる医学,合わせ鏡が今ないわけです。ぼくの映画は映画という限られたジャンルでしかものを言ってないけれども,例えばある先生は,胎児性の子供は母親が健康でも起こるということを動物実験ではっきりさせたとか,水俣病は脳だけでなくて全身病だというデータが臨床的にも積み上がっているとかをとにかく公開した。それから眼球運動異常,あれは非常に考え抜いて作られた方法なんです。本人に応答してもらわなくてもできる。きわめて客観的なデータになると思う。ぼくはあのために自分の目を何度もハイスピードで撮ったんですよ,酒を飲んで撮ってみたりね。ぼくは目が非常に弱いんです,遠視性乱視の弱視ですからね。ところが,ぼくの目にああいうギザついた動きは出ないんです。それじゃこの方法でやっても映画として嘘はないなと思って,それでやったんです。人間の目というのは生理的になめらかにものを追求していくのが普通なんですね。ところが,その眼球運動のデータが東京で採用されなかったんですよ。環境庁の健康分科会とかで。そんなことを聞きますと,少なくとも映画で撮ったものぐらいはみんなで検討してもらって,そして一応ベースにしていただきたい。患者さんにも,例えば自分は手がしびれているけれども、手のしびれというのはどういうことかということを知ってもらいたい。あるいはどもるようになったとかね。患者さんもお医者さんも,それぞれが責任を持ってしゃべったり,実験結果を出してくれた,それを公開しちゃったわけですから,無視しないで,討論してもらって,ベースにしてもらえたらぼくはありがたい。公開されないで,学術論文の抜き刷りぐらいで動いているうちは,ぼくはあまりパブリックだとは思わないんですよ。この映画で患者さんまで知っちゃった,そうなったときにどういうふうな波紋が出てくるか,そういうところをぼくはまず考えましたね。特にそれは,熊本の現状での認定のあいまいさを見ると。つまり他の病気と合併している場合,他の病気で現時点では説明しうるという形が圧倒的に多いんですよね。けれども,それはやっぱり水俣病がベースになって起きたのではないか。でもそういう方向になかなかいかないわけで,熊本の不知火海岸の人たちとお医者さんにとってたいへん困難な状況にある。そうした事実を問題提起として率直にうけとめてほしいから。本当は映画的にはカットしちゃった方がずっとすっきりするような,白か黒かわからないという研究だって,ぼくは映画の中に入れているわけです。本当は,将来白となってくれたらいいわけです。今,完成された病像,あるいはある種の体制によってオーソライズされた病状だけでまとめるなら,もっと簡単なあっさりした,そのかわり無味乾燥な映画ができたと思いますけれどもね。やっぱり原理的にはわりと実践的な映画だと思うんですよ。
平山 医者ばかりじゃなくて,パラメディカルのいろんな領域,それから一般の人までも含めた多くの人たちに見てもらえた方が,この資料の価値は出てくるということですね。
土本 ええ,それだけのやさしさとか広さというものは,最低ぼくは持っているというふうに思いますけれどもね。
人びとと魚との結びつき
平山 水銀を蓄積した魚というのは,外見上,新鮮な魚と全く変わらない。それで漁民たちは今でもたくさん魚を食べているということが,映画の中で警告的に語られていたと思うのですが,疑問に思ったのは,魚と漁民,あの地方の人たちの結びつきがどういう内容のものなのかということです。やっぱりお魚を食べざるをえないような側面があるんじゃないかというふうに考えたんですね。映画の中でも,行商の魚を平気で買って食べていますね。水俣病のことを知らないからだとも思われません。ある程度抵抗感があるだろうと思うのだけれども,そうじゃないわけですね,画面で示されているかぎりでは。
土本 ぼくもだいぶ食べてます。今は禁止されている地点での魚を,この前行ったときはそこのばかり食っていたんですからね。ひとつには、やっぱり昔からなじんだ味の天下一品さというのは,漁民には忘れがたいと思いますね。
平山 それはそれでいいはずですよね。
土本 自分で選択して(全く変形がないので、実際上選別は不可能)変な魚は買わないとか,それからどこでとれたというぐらいのことは聞きますよね。そうすると売る方は嘘を言いますよ。近くでとってきた魚だと思っても,これは米ノ津だとか,これは天草だとかね。でもそれを開けば安心するんですよ。(笑い)
平山 合理化して食べちゃうわけですね。
土本 それから笑い話ですけれども,ぼくが70年に行ったときに,漁業協同組合がひそかにやっていた魚の水銀探知機はネコですよ。ネコに食わせてネコがおかしくなったらね……(笑い)。
そういえば最近水俣のネコはどんどんおかしくなっているんです,ばかになっているんです。のろまだし,毛並が悪い。
平山 現在でも?
土本 ええ,現在でも進行しています。ほかの地方のぴちぴちしたネコを持っていったら一目でわかります。毛がじょじょげちゃってね。死ぬのでも縁の下とか人目につかない所ではなくて,畑のひなたのど真ん中とか,普通では考えられないところで死んでいますよ。ネコらしくないネコが多い。ネコは人間の1/7ぐらいの寿命でどんどん交代するでしょう。だから慢性の胎児性がいて,それがまた次に胎児性を産んでという具合にくり返しているんじゃないかというふうに思いますね。今でも狂ったネコが出たので,保健所へ持っていったとかいう話を聞きますもの。
平山 人間の近い将来を語っているみたいですね。
土本 もう確実にそうだと思いますよ。だってあそこの平均寿命は男52歳,女53歳でしょう。それは交通事故も含むんです。難聴でしょう,視野狭窄でしょう,それから失調でしょう,だからぱっと身をかわせない。3つそろっていれば交通事故は起きますよ。だから交通事故が多いです。
「医学としての」にこめられた意味
平山 魚屋さんの運転がありましたね。あの人なんかよく運転できると思いますね。
土本 あの人は抜群にいいですね。
平山 それと関連してなんですけれども,あの映画の「医学としての」というのが,医学といってもかなり診断学に片寄っているような感じがするんですね。私は例えば患者さんの対症療法だとか,あの魚屋さんの場合は,運転して仕事をやっていることがリハビリとして生きているんじゃないかというふうな指摘があったんですけれども,そういったリハビリテーションとかに関心を持ったし,さらに患者の生活そのものがもっと大事にされていいんじゃないかなという気がしたんです。日常生活いろいろ,例えばあの中にあった床屋さんの例だとか。シャツを脱がしてテストしていましたね,あのぐらいの障害を抱えていたら,だれがどういうことをしてあの人が1日生活できるようになっているのかなと,そういうところも見たかったような気がしたんですね。
土本 生活の面については,前作の『水俣』で探っていったつもりです。患者さんがどういうふうに不自由かとか,胎児性の子供はどういうふうな看護で家で生活しているかとか,医学の方へはいれなかったから,まず日常を見ていったと思うんです。それから『不知火海』でも患者とか胎児性の子供の生活は出ていると思います。
平山 じゃぜひ見たいですね。
土本 「医学としての」というふうに言ったのは,やっぱりぼくにとって医学という言葉の新鮮さがあるわけですよ。
平山 いままでのお仕事の線上で……。
土本 はい。医学を詳しく知っている人から見ると,ぼくがそんなふうに肩をいからして医学,医学というのはおかしいかもしれないけれども,今までは絶対に入れてくれなかった世界だし,特にぼくみたいに運動から水俣に近づいていったような人間というかな,そういうのに対しては相当警戒があると思うんです。人によってはぼくは過激派らしいし。そんなレッテルが世の中には無責任に横行するし,意識的に行政から流されたりしますから。だから医学というものをちゃんと撮ろうとしたときのぼくの興奮が「医学としての」という題名などに出ちゃってるんですね。
平山 公衆衛生院という所は医者,パラメディカルその他いろんな分野の人たちが,共同に共同の材料で考える場を非常に大事にしている感じなんですね。ですから映画を見ていちばん感じたのは,あれを材料にうんとディスカッションしたら,何かひとつ,医学のいままで持っている欠陥というふうなものが,実践的に討論されるんじゃないかなということです,すごくいい材料だなと。それと何も押しつけがましさがないような感じがして,そこがとてもいいなと思ったんです。
土本 ぼくの方法といっていいんですけれども,ナレーションをなるべく言わないようにしているんです。ナレーションで提示するのは事実,日時とか場所とかいう条件ですね。価値の問題は皆さんの判断に任せる。
平山 それは記録映画だからこそですね。
土本 はい。ぼくがもし何かある価値を言ってしまうとすると,ぼくは医学者でも何でもないから,何をこまっちゃくれたことを言いやがるというところで,他の大事な信憑性を持ったところまで,そのコメントとともに消されちゃう。それを極端に恐れたというかな。いわゆるモンタージュとか,映画的な技法で人をある方向に誘導しちゃおうとか,引っぱっていこうとか,訴えてそのとおりにしちゃおうとか,そういうことはあえてしない,それは守ったつもりです。運動からこの映画を見る人は,だからどうしろという指示をしないじゃないかと貰うけれども,人間の行動というものは、ぼくはそんな即時に出てくるものではなくて、やっぱり見て,考えて,いろんな現実のファクターと重なって,運動というのが起きてくるんだと思う。
認定制度という権威主義が押しつぶしたもの
土本 水俣を歩いて,医学の映画を撮ってみて思ったのは,ふつうは臨床という裾野がまずあって,その上で病理が解明されていくというプロセスをとるのに,水俣に関するかぎり逆じゃないかということです。病理がいちばん明快です。ところが,水俣病は次に何が起きてくるかわからない。こんな形,あんな形,これは蓋然性があるというふうに。そして,その人が死んでから解剖によって突きとめられる。生きている間は他の病名で処理されて、水俣病と認定されなかったケースがあるんですね。死後,解剖によって争点がはっきりして水俣病として認定しても,その認定したときには死んじゃっている。こういう無念なケースが多いんで,ばくらは必要以上に臨床のあり方について目がいくわけです。生きているうちになぜ取り出せなかったのか。臨床ではこうであろうと思っても,それを裏づける条件がない。だから臨床もかなりいいところを見つけながら,説得性を持たない医学的所見になってしまって,有効には採用してもらえない。臨床が弱くて病理が強い,このさかだちは,偶然のさかだちではない,ぼくはかなり根底的なさかだちだと思いました。
平山 それに関連してくると思うのですが,地区を担当している保健婦がおそらくいるはずですね。その人たちは,地区の人たちの健康の相談にのったり,健康管理,健康の世話をするというのが職業で,国民健康保険や町役場,あるいは県から給料をもらい,その地区に責任を持っているわけです。映画ではその辺のことはいっさい出てこなかったような感じがするんですけれども。保健婦だけじゃないですね,保健所の医師をはじめいろいろな職種の人たち,ケースワーカーもいるだろうし,そういう人たちが何か非常に無力だというのが私の感想なのです。もしその中で例えば保健婦が,熱心に水俣病の問題にかかわって,自分の日常の仕事の中でしようとして努力したら,おそらくその人は職場からつまはじきになってしまうだろうし,ネコのように狂ったぐらいにしか思われないだろうと思う。そういう職種の人たちに対して,監督さんなんかのようにかなりエネルギーをかけて水俣病と取り組んでいる人たちはどんなふうに見ているのでしょうか。
土本 ぼくがですか。
平山 保健所でネコを飼ったなんでいうことが紹介されていたけれども,それだけで,それ以上あまり紹介されていないし……。
土本 ぼくが最初に行ったのは昭和40年ですから,10年前ですけど,その前にすでに約10年の水俣病の歴史があるわけでしょう。記録として何らかの形で残り始めたのは40年ぐらいからです,石i礼さんなどの仕事にしても。そういう点ではばくら表現者としては,その前の段階は知らないわけですけれども,いろいろなことを調べてみますと,水俣病の原因がチッソにあるということをばく然と探りあてた3年間は,限られた条件の中で,保健所も,それからチッソの中にいた細川一という先生にしろ,熊大の若き医師たちにしろ,本当にいい関係があったと思うんです。保健婦さんたちもその陰に隠れてたいへんなことがあったと思いますよ。魚を採りにいくとか貝を集めにいくとか,あんなことまでやったわけですからね。それがどこら辺から変わってきたかということをぼくなりに想像すれば,チッソが補償を迫られた34年に,学術的裏づけが欲しいと言って,熊大を中心に認定審査会を作ったでしょう。熊本の保健活動の蓄積などということは無視されて,つまり大学の象牙の塔の中での権威ある水俣病としての証拠を持って来いと,そうすれば補償すると。ここからぼくは,現地の保健とか治療にたずさわるいわば純粋な医療活動がぷつんと切られてしまったのだと思う。つまり医者が2種類に分けられちゃったんですよ。一方は水俣市立病院のトップクラスと熊本大学の医学部,他方は保健所段階とか,町のお医者さん段階。後者の段階の認定ではまだ信用しないと。それを仕方のないことだと認めて,だったらちゃんとやりましょうということで熊大が引き受けてからできてきた既成事実です。この認定制度の権威主義が,34年の補償にからんで出てきちゃったと思う。だから水俣病というふうに思った患者については,それは市立病院で診ましょう。市立病院で一応疑いがあれば,次に大学でやると。しろうとの口出し許さずという,活動しにくい形に現地の保健婦さんの心理は置かれたと,ぼくは思うんです。本来は毛細管みたいに,方々歩いて患者をみて回る,ほかの伝染病などの場合には必ずすると思うんだけども,補償というものがからんだ水俣病の構造から生まれてくる社会的ないろいろな力学からいうと,これは何もせん方がいいという方向に変わったと思うんです。
日常活動にねざす連帯の芽ばえ
土本 で,水俣からどういうふうにして患者が出てくるかというと,やっぱり町医者がいちばん経験を持っているわけです。ほとんど一目でわかるといいますね。一目でわかるけれども,審査会へ行って引っくり返されたら気の毒だという気持が半分あると思うんです。それから,あの先生は何でもかんでも患者にしちゃうというふうに言われるのは極度にきらいなんですね。長いこと鳥目なんて言い続けているんですね,視野狭窄を。中風だとか,おまえアル中だとかいろいろなことを言って,なかなかずばり書かないんですよ。そういう人がほとんどだったんじゃないかと思いますね。最近少しそれがゆるんできたようですが,逆にあんまりひどく水俣病になり過ぎて検査不能な人は挙げられないわけです。そういうのが熊大の原田さん(自発的に検診している奇特なただ1人の医師)なんかに回ってくるわけです。また,新しい医院が開設されたり,民医連系の病院が建ったり,そういったことで少し風通しがよくなってきた。それにしても,審査会の審査の基準によって切られた場合に,おれの診断をどうしてくれるというふうに言う人はいないです。そういうケースの場合には,やっぱり,原田さんなんかに診てもらって,つまり原田さんの権威をかりて権威に投げ返していくと。だから保健所とかパブリックな中で働いている人たちの活動分野が,歴史的に規制されたことと,水俣病という病気の性格が,いわばその地域全体の保健を高めていくという,普通のストレートな自分の仕事の作動を絶対させなかったということで,特に立場の弱いケースワーカーとか保健婦とかはつらい思いをされ続けたと,ぼくは断言しますね。
この7年間くらいに少し変わってきたのほ,地元とのしがらみのない看護婦さん,堀田さんみたいな人(『看護』’75年4月号参照)や,かつては文学少女で,いろんな社会運動をやった果てに筑豊にたどりつき,そこで水俣病に出会い水俣に来た伊東紀代子さんのような人たちの活動ですね。彼女は自動車はできる,弁舌は立つ,文章は書ける,勉強をすれば何でも吸収していくという優秀な人で,患者の間をとび回って,聞き書きしたりして,基礎調査のノートを作っている。しかもそれを体系化していくわけです。この地区には何人患者があってどうだとか,怪しい人がいると聞いたとか。そういった活動が核になって,水俣病のことで頭にきた学生たちが住みつき始めたわけです。半月は肉体労働をやって半月は活動だけやるとか。地元の人だといろいろおもんばかってできないようなことを,ずばずばやっていく。その人たちとケースワーカーや,保健所の若い人とのつながり,いわば私的なつき合いというのは,おそらくぼくはできていると思います。
平山 今あるわけですか。
土本 できていると思いますね。何とか共闘会議とかそういうんじゃなくて,行ったらちゃんと病室の中なんか,普通の人が行けないようなところを見せてくれたりね。ぼくら行ったって面会謝絶というところがいっぱいあります。そういうところに彼らはすいすいはいっています。
平山 保健婦が住民1人1人の健康の問題を,いわゆる医学的な診断面でどうこうというんじゃなくて健康の状態をきちっとつかんでいるようなはいり方ができていれば,もっと初期の段階で有効なつかみ方があったと思うんですけれどもね。保健婦の側はそういうふうな体制を作ることが望ましいというふうに教えられ,みんなもそう思っていると思う。だから水俣地区の保健婦たちは,おそらく土本さんの言われたようにすごくつらいというか,無力感というか,悩んだんじゃないかという気がするんです。でも,今のお話だと,よそからはいっていって活動している人たちと接点ができてきているということであれば,少し状況は変わってきているし,それだけ問題の深さというものが明確になってきているから,保健婦たちもそういう意味では救われるんじゃないかな,という感じがするんですけれどもね。
土本 いわゆる活動家たちも,日常の活動の中から,どうしても行政上の保健のことで働いている人を求めていったと思うんですよ。そのカをかりにいったと思うわけ。現状はそういう形だと思いますね。
患者がいちばんすぐれた看護者
土本 水俣病の看護者には,軽症といっちゃおかしいけれども,水俣病の人がいちばんいいですね,重症の子供や老人を扱うのに。
平山 それはどういうことでしょう。
土本 自分のおかしい状態を,おかしいところを知っているから。それから言葉が全然言えない子がいますね。そうすると通訳ができるのはただ1人,水俣病の胎児性の子供なんですよ。長いこといっしょに暮らしているから,ばくらから見ると発声がほとんどないから,言葉を交わしているとは思えないけれども,2人の間ではかなり高等な,抽象的な言葉で話し合っているわけです。その子の通訳抜きには,医者だろうが保健婦だろうが,10のことのうち1~2しか理解できない。
平山 そこら辺は医学として問題になるんじゃないですか。診断学としてほそれほど問題にならないにしても,看護とか治療とかを含めて医療の責任ということを考えていくと,非常に大事なことじゃないかなと思います。
土本 それから水俣病の治療については,温泉が効くんですね。はりとかマッサージも効くんです。それがいわゆる病院型のマッサージより,「あんまいたします」とか,あの方が効くんですよ。また最近は薬草の研究をしていますね。けっして毒が排出されるというわけじゃないけれども,全体の機能を高めていくというか,そういう例が出ています。結局,水俣病の症状は多岐にわたるから,薬の種類を10種類ぐらいくれるんですよ。夜眠れないから眠る薬でしょう,そうすると胃が悪い,胃の薬,腸が悪い,腸の薬,全部くれるわけです。まぐさのようにくれるわけです。小便が出る薬,血圧の薬,肝臓の薬,ともかくたいへんですよ。結局,心配だから飲み続けるわけです。でもちっとも治らない。そんな時に薬草の話を聞いて,ひょっとしたらと思って行くと,見事に一時の回復が見られるというようなケースがありますよ。確かに完全にはよくならないことは決まっている。しかし少しでもよくなると思うことには全部援助できるといいですね。