叙事詩『不知火海』 『不知火海』上映用チラシ 1月 青林舎
不知火海を「死んだ海」という。百間口のヘドロは今も数百ppm、そこの魚は食べられない毒魚として捨てられる。……ある日、ヘドロの干潟にキラリと光る稚魚群を見た。病める脳や神経をもつ魚にせよ復活したのだ。その時の患者さんの一瞬の生気を何と言えばよいか……「お、カキがもどっとる」と岩はだの稚貝をみる。水銀漬けの水俣湾にも自然がもどっている。そのどれも危険ではある。だが生き、産まれたものなのだ。捕ってプラスチックのタンクづめにして葬る運命の汚染魚の山から、巨大な蛸やすゞきを高くさし上げて、カメラに誇る漁民の心は「死んだ海」と見なす者への抗議のように熱い。
人も病む、魚も病む、病者どうしの生きものの世界-私達は不知火海の漁を追った。内海の多彩な漁法を探し歩いた。そして、おかしな体の人びとに辿りつくことになる-。引汐時、女房子供たちの、遊びとも仕事とも分ちがたい一、二時間のうちに、手籠一杯のあさりやシャコが採れていく。内海・遠浅の海は畠仕事に似ている。なすをもぐように定置網からふぐやきすなどを採るのである。いか籠、ごち籠、うたせ漁、ふぐの一本釣の舟の帰りつく家々、その平穏な暮しの中に、水俣病は埋められていた。水俣さえ、この浜この島から見れば都である。そこに海は現役のありかたをしているのだ。
病める海、病める魚共とともに、病んだ人々は”有機水銀下”の生き方をそれぞれ探る。例えば一家全滅の家族、子孫への期待は殆んどない。「補償分限者」と罵られながら、病者に最も快適な”豪邸”を作った。外に一歩も出ないで余生を生きる覚悟であった。漁船はすでに売り、かわりに船出させた華麗な難波船である。たゞその庭からは不知火海の眺望が要るのである。
胎児性の子供は今青年期、その愛も性もあふれでる年頃となった。医学者に「私の脳を切開手術して」と問い、彼を絶句させる少女。
手押車は習熟し、行動圏のむこうに車の運転に執着する少年、施設からの”脱出”を考えめぐらす患児たち。カメラはその思いのくだかれていく一瞬にむきあうのである。
医学の見放した病苦に独自に立ちむかう五児の母がいる。その強靭な精神力を自らの水子(流産児)の供養から授かり、隣人の霊そして魚どんの霊に至る。「横波の強か時は舶先をまともに波にむけよ」という亡父の漁法からついに水俣病たゞ中の生き方を探りあてる…。
不知火海-水銀汚染ゆえに忘れ去られた内海の中で、水俣病の固有の痛苦をテコにひとりひとりの ”生存の条件”を組立てる人々、海の死滅を決して願わない人々がここに居る。その海と生物への限りない信心はネガティブのロマンをうちだして止まない。この人と海の臍の緒こそ、水俣病を生き、かつ闘う、ひとりひとりの生命力の所在ではないだろうか。