水俣看護婦、堀田静穂さんのこと 『看護』 4月号 日本看護協会出版会 <1975年(昭50)>
 水俣看護婦、堀田静穂さんのこと 『看護』 4月号 日本看護協会出版会

  水俣に,44年から7年間,患者さんのお世話をしている堀田静穂さんという30歳?の女性がいます。看護婦さんのお免状をもって,最初は志願して水俣病患者の病棟づきとなり,約束の1年が終ってから東京の重症心身障害施設に修業にいき,また,水俣に帰りました。その間,中国に水俣病にきく針,灸や,マッサージはないかと勉強にいったりしましたが,いまは,自分で”移動看護婦”となって,細い体でバイクにのって東に西に,患者宅をまわっています。その活動費とガソリン代と食費は,東京や全国にいる医師,看護婦さん仲間のカンパで支えられています。この堀田さんのような仕事が一番必要だと,その人たちは知っているからです。というのは,病院のお偉いお医者さんや,その指図で動く看護婦さんには「悪くて言えない」ようなことを,この人には何でも言えるからです。決して卑屈とかへりくだりとかいうのではなく,この人の7年間,患者さんの手足として,時に家事の手伝い,時にマッサージ,時に人生相談,時に話し相手となる身の処し方が,いまはすっかり身について肉化しているからです。
 私の映画『不知火海』の中で,ある重症の胎児性患者と長々と ”車椅子”のお話しをしているシーンがあります。このシーンをとるきっかけは,ひとこと彼女が何かの拍子に「半永クンに開いてみると」と前おきしたのを私が聞き返したことに始まります。それまで「ああ」とか「おお」とかしか言えない彼と話ができるなどと思っても見ませんでした。ところが彼女は手まねや身ぶりでほとんど分るというのです。彼女からことばをいくつかぶつけ,彼が「それ!」というのをひろって確めて話していけば良いというのです。映画にとってみると始めて,なるほどとうなづけます。もちろん,そうなるにはこの少年との7年間の個人的つきあいもありましょうが,口も言えない,眼も耳も不自由,足も歩けず,手もかなわぬという子にも「人間」があり「心」と「精神」があることを,いち早く察知していたからだと思います。私も,他の大人も,それまでに半永クンや他の胎児性の若い患者を知っていましたが,対話,とくに「心や思い」の部分を話しあえるとは夢にも思ってみませんでした。それだけに,やはり気の毒,残酷という気持をもって,かえっておじ気をもって,その心のかよいあいを当方からとざしていたといえます。それは支援の大人たちもそうでしたし,親も医者も,特殊学級の先生もほぼ見方と処し方は同じと思います。
 この頃,施設「明水園」に入っている子供は赤電話を使うことを覚えました。16,7歳になって普通なら当然ですが,この子たちの指は触覚がマヒしており,運動障害のため,ダイヤルをうまくまわせません。仮にまわせても,話ができません。しかし,ここは午後4時半には,いわゆる宿直の人をのぞいて引き汐のように帰っていくので,夜が長く,人恋しさに耐えられぬのでしょう。ダイヤルをまわしてしきりに話すことになったのです。およそ2回に1回はダイヤルの廻しちがいをします。それでもかけるのです。
 これがあまり煩わしいためか,訓練士や看護人のところに,用もないのに電話するのは禁じられています。そこで堀田さんのところに集中します。午後6~8時までひっきりなしです。それも,身ぶりも,手ぶりも見えない電話での交信ですから,彼女の早口はさらに早くなります。しかし一人一人に話し,その人恋しさを引きうけているのです。
 彼女の最大の仕事は,いわゆる潜在患者宅の訪問です。あるいはその申請の手伝いであり,医師の診察前の問診と家族歴,生活歴のノートをとって,彼女なりに医学の基礎を洗っておく仕事です。その仕事の中で,患者かどうかほぼ判断できているようです。
 水俣の患者は,県が住民検診などして救い上げてくれる方法ではありません。「本人申請主義」です。水俣病と思ったら申し出なさいというシステムです。しかし,人間の知らなかった疾病であるとき,誰が水俣病と申し出ることができるか,また地域で魚が売れなくなると忌みきらう時、なおさらです。そこに入っていくのが彼女の仕事です。「とてもひとりでは不知火海は背負えません」と,2年程前から宣言しているのですが,かといって,やめたら,何十人の患者が救済のつぎほを失うのです。だから元気ですし,美人とは言えませんが,とても目がきれいで,ことばと態度が美しい人になっています。目下,独身ですが,それだけに皆が大事にしている人です。こんな人に会うと,映画はもうできたようなものです。