「怨念」を撮り続けて十年 患者のために今後もやらねばならぬ 「毎日新聞」夕刊 4月8日
子供を撮ることの自問自答
-士本さんと水俣病との接触はいつ、どんなかたちで始まったのでしょうか。
土本 最初はごく軽い気持で水俣に行きました。昭和四十年です。当時、水俣病のデータは、写真と新聞のスクラップしか僕は持ってなかった。でも、だんだん調べていくと、チッソの廃液のタレ流しだという社会的モチーフがでできて、テレビの仕事(日本テレビ制作「ノンフィクション劇場『水俣の子は生きている』)で水俣に入ったんです。水俣では順序どおり熊本大学医学部へ行ったのですが、もう実験もしてないし、ある先生には「水俣病もひと区切りついた。われわれ熊本の研究者が中央にものをいってトクしたことがないので今は研究してない。お引取り下さい」といわれ病院だけで、番組をまとめざるを得なかった。この時の取材は水俣では非常にきらわれましてす、どなられたりもしました。私としては、撮らなきゃいけない、いや撮るべきじゃない、心千々に乱れたまま帰ってきてしまって……。
結局、次の患者さんのもり上がり(裁判闘争)がなければ僕はこの仕事から逃げてしまってたかも知れませんね。七〇年の厚生省座り込み、いわゆる〝かけ上り行動〃を受けて立ち上がるという意味で、カメラなんか回さんでいいから運動しようと決めました。そこから患者さんとのつながりもできたんでしょうか。
-撮影を始めたころの患者さんの反応はどうでしたか?
土本 うーやはり”寝た子を起こすな”ですよ。チッソの見舞金値上げがあったころで、録音するのはいいが顔は写さんでくれ、といったチッソへの遠慮があって、全体として大変へこみきっていた時だった。水俣でタクシーの運転手や食堂のおばさんに聞いても、患者を見たことがない、という。事件そのものがどこかへ行っちゃった、という感じでした。それはある意味でもっともで、患者さんは家の奥か、病院の一隅に幽閉されていたんですよ。
-そういう状況で水俣病を映像するのは随分、困難だったでしょう。
土本 病院にいる子供たちは、非常に人なつっこいんです。カメラにも慣らされている。子供たちが僕をもっと悩ませてくれたら、いくぶん救われたでしょう。でも撮りやすいからやはり子供を撮る、それが何ともいえない痛みでした。
その水俣病の子供の存在が文字通り自分にはね返ってきて「本当にお前は撮れるのか」「この子たちは撮れないよ、お前が撮ろうとしてきたこと自体、お前は本当に人をなめとるよ」と自問自答がそこであるわけです。だから、困り方が割と本質的だったんですね。この敗北感は次の映画(「水俣-患者さんとその世界」)の途中までずうっと尾を引いていました。
ー土本さんはカメラを回さないことがあるそうです。
土本 毎回そういうことがあります。たとえば水俣に四カ月いても、はじめの三カ月はほとんど回しません。何ていうか、それは患者さんをおもんばかってではなく、こちらに撮る度胸ができないからです。患者さんたちとじっくり話し合っている中で「撮っていいよ」っで感じになり、こちらも「じゃ、いこうか」みたいな。双方のボルテージが上がってきて、患者さんは思いのたけを話すんで、コミュニケーションの素朴な原則みたいなことがあったと思う。
撮ったフィルムはすぐ現像して水俣で上映しました。みんなも呼んでね。これを見てもうみんな笑いころげるんです。自分は相当深刻なことしゃべっているのにね。何となしに、このカメラはオレのことをキチンと撮ってるなって分かるんです。それ以来僕は、患者さん全員を撮ることにした。どの患者さんも、自分の苦しみが一番だと思っていますから、一人もフィルムを切ることはできない。患者さんには全員に会いました。
やりきれぬ久美子さんの死
-水俣病が惨状ということは頭でわかっていても、それを現認するのはつらい仕事ですね。
土本 本当につらいんです。人間が作った科学であんなにひどくなるなんて。まだね、動ける子はいいですよ。一人だけどうにもつらくて、松永久美子さん(昨年八月二十五日死去、ニ十三歳。水俣病百人目の犠牲者)の存在はね、それはもう僕には本当につらかつた。生きてるかどうかは、口元に腕をあてないとわからない、目はあいているけど、見えるかどうかわかんない。腕は曲がりっぱなし、食事も流動食を流し込むだけ……。美人でね、大変な美人でね…。
久美子さんを見るとね、もうねェ「帰ろう」って気持ちになっちゃう。この人をなんで撮るんだ、という自問からです。「生ける人形」とかいわれ、カメラを拒絶することもできない意思表示することもない。この女性の中にもう人間はない、なんていわれていて……。このように、人間の一番大事なところをこわして、しかも最後の生は残しておくというかなァ、そういう毒があるということにやっぱりひっくり返るほどびっくりしました。
松永さんが去年亡くなったときね、僕は三日間仕事できなかったですよ。ちょうど、あの人のフィルムを撮影順に並べてたんですが、もうフィルムにさわれなくなっちゃった。編集の女性は荒れくるって泣いちゃうしね。
患者さんの中で、なんといっても厳しいのは親の狂い死にを見てる人でしょう。だから僕は、久美子さんを見たか見なかったか、というのは現実に随分違うことだと思う。あの人は水俣病の原像で僕のフィルムを見てくれる人も必ず僕と同じように見てくれる。
けれどもね、全部やめてケースワーカーになることによってしか、僕が水俣で重ねた数々の失礼を返すことはできないのじゃないか、と真剣に悩んだこともありました。
”医のゆがみ”を直すために
ー医学や医師たちはどうでしたか。
土本 水俣へ行ってると医者を信用しなくなるんですよ、どの医者もね。「患者さんとその世界」のとき、医者が「フィルム提供しないよ」というと、僕は「もともとそういう人たちだ」という感じでいたんですよ。ところが、ストックホルムの環境会議(七二年)で公開すると、なるほど患者さんは出てるけど、水俣病の医学がないじゃないか、と批判されたんですね。それで、水俣病で医学が欠落してるのはとっても恥ずかしいことだと思うようになってそういうときでしたね……。
-原田正純さん(熊本大助教授・精神神との出会いですね。)
土本 ええ。「実録公調委」を撮ってるころで原田さんが水俣へ来て、自分の時間、をつぶして、献身的にやっている状況を撮れば、それ自体、水俣病の医学映画になるかもしれないと考えたんです。
そのうち彼は「オレはちっとも水俣病のことわかってないんだよ」という話をして「迷うことばかりだ。オレより経験ある先生が審査会でどんどん判定をしている。それにオレはひっかかるけど、データがないし、学問的な力もない。とにかく臨床床のタイプをたくさん持つんだ」と、せっせと家に行っている。チッソの第一組合の委員長に「医者が患者に隠してるんじゃなくて、本当は医学はまだ何もわかっちゃいないんだ。そこからとっかかったらどうか」といわれたんでこの二つのことが『医学としての水俣病』の出発ってだったんです。
原田さんはやはり自分の場所を臨床の中に求めて、それを学問的研究として積み上げていくことしか、水俣病のゆがみを直せないと、何年間も追いかけると基本行動をもってるわけですね。これを抜きにしたら、同じことになっちゃう。患者さんに貢献できるだろうという原点が変わらないんですね。
『医学としての水俣病』では、研究者のイデオロギーや現在の社会的立場ではなく、一定時期に水俣病にかかわった理論や成果をともかく映像に残す、という方向で進めました。裁判も終わっていたから、協力してくれた。だから普通の医学映画のようには監修者はおきませんでした。
ドキュメント”医学界の旅”
医者は、水俣病の病像はこれ、という形では患者さんに見せない。自分は水俣病だと思っても、合わせ鏡がないんですよ。水俣病とは何か、というデータを洗いざらい、仕事を通じて公表せにゃならん。そういう意味では、もうなりふりかまわないやり方をとったわけです。いわばドキュメント”医学界の旅”であって、半面、資料も随分あるはずです。だから見る人によっては、かなり卓抜したことを発見するかも知れない。これで論争が起これば本望です。
水俣病の症状、たとえば運動障害とか構音障害とかは、やはり映画でしかとらえられないもので、いまから思えば水俣病の映画は必然的だったと思います。でも、僕らはね、自分らでお客を作っていく映画というふうに考えてるんです。
-こんど作りたい映画は?
土本 やっぱり、患者サイドに立った水俣ドキュメントです。