映画塾パンフ お目の目は節穴か ノート
 映画塾パンフ お目の目は節穴か

 「お前の目は節穴か」という悪口がある。が、あえていえば眼は通常は節穴であり、目を開いていても見ないことの方が生理に即している。見ているすべてに感応していては身がもたない。見ることを拒否する生理もある。事件が起きてから、「見るべきものを見なかった」という類いの叱責を聞く。それが責められるのは「見なかった」、その”不注意”ゆえだ。だが、本来、人間、絶えず凝視し、思考できる生き物だろうか。それ自体、労働である。労働にはエネルギーがいる。そのエネルギーを全時間、持続することは生理に反する。いわば人間、眼が節穴でもあるがゆえに生きていられるのだという逆説も成り立つ。
 私はそうだ。映画は「眼が節穴同然でもある」という、自分の眼への不信感を捨てられない。「神は細部に宿り給う」という諺をたよりにしてきた。映画は怖い。レンズとマイクを持つと目が節穴ではいられない。意識と選択、つまり意思が働きはじめる。時には自己陶酔や恍惚感の支えがいる。つまり通常ではなくなる。編集にあたっても、フィルムの写しとった対象に同化するか異化するか、拾うか捨てるかの決定にあたって動揺する。「NGにこそ神が宿り給う」と思うからなおさらである。この葛藤をへて自分の、映画を撮る前の節穴同然の眼(意識)が覆されるとき、映画が出来たかと思う。
 生理には精神的生理と肉体的生理とあるという。生理的選択が即、精神的な生理とはならないにしても、美学や思考が、生理にまで溶け込んだ映画を作りたいと思う。が、まだ出来ない。老いた今はさらに難しいだろう。
 つくり手の生理は当然、そのフィルムの時間に流れている。鑑賞者の生理は、映画には時間を伴う点で絵画や写真の観賞や読書とも異なる。時間はご随意にという訳にはいかない。その生理の共有には観ることへの誘いと策略がいる。作家の主観主義への自戒は当然であろう。