水俣病犠牲者の遺影を訪ねて
水俣病その四十年…水俣・東京展に向けての取材の記
一昨年の秋から一年かけて、水俣病で亡くなった方々の仏壇に祭られた遺影を複写する仕事をしてきた。総数約五百人である。死者千二百人に及ぶその総数に遥かに及ばない結果となったが、その事情は後回しにして、まず発起までの事情に触れたい。
早いもので、私が水俣病に関わってから、三十年になる。水俣病の公式発見から十年後の、「いまごろ、のこのこと…」といった気後れを抱えて現地に足を運んだ昭和四十年(一九六五年)から数えて、である。その第一作『水俣の子は生きている』(日本テレビ<ノンフィクション劇場>)に登場した子供たちも、現在、人生のただなか、齢四十歳に近い。
数えてはいないが、私の水俣映画十五作にはのべ数百人の患者が登場、うち数十人が親しく惨苦を語ってくださった。この方々の記憶を記録に“変換”し、水俣病の歴史に映像として残すのが私の三十年だった。どれも映画的に工夫はしたが、なにより記録性を大切にしたつもりでいる。ふりかえれば、十年の節目ごとに『水俣病-その二十年』、『水俣病-その三十年』という作品を作ってきた。
その私が今年は私は遺影集めに没頭した。たまたま水俣病、その四十年にあたったのはなにかの縁である。企画して数年ごしのプラン、『水俣・東京展』が今年、秋、品川で開かれる。水俣病事件に関わった多くの表現者、記録者、芸術家の仕事を一堂に集めて展示し、そこに水俣病犠牲者の鎮魂の場を設けたいと考えた。
当時に気持をその企画書『記憶といのり』の一部の引用でお伝えしたい。
「ほぼ二十年まえ、私たち青林舎は記録映画『医学としての水俣病-病理・病像編』(武内忠男・元熊大教授ら監修)を作りました。そのファースト・シーンに亡くなられた三十人の患者さんの生前の顔を重ね、ナレーションでこう述べました…『この方々、死後、病理解剖された四十一人の剖検(解剖)例から、世界で初めて起きた水俣病の病理研究は、その糸口が開かれました』と。全編にわたって脳や細胞とかの破壊を描いたこの医学フィルムの主人公が“脳”や“破壊された神経”ではなく、あくまで主役は患者だったからです。その風貌や、生前の姿、海の匂いのする肖像写真の顔々がこの映画の冒頭には絶対に必要だったのです。水俣・東京展もその気持が引き継ぎたいので」。
「…現代の戦争の悲劇や、人類の愚行、過失の記憶のしかたにはいろいろあるでしょう。
米国にはベトナムで戦死したすべての兵士の名を彫った石碑の壁があり、アウシュビッツの犠牲者の髪の毛と入歯や眼鏡の山は鮮烈です。写真展示では知られているのはカンボジアでポルポト派に虐殺された人々の識別用写真の展示、沖縄の『ひめゆり資料館』には死んだ女学生たちの写真などです。即位後、沖縄を訪問した天皇はその資料館にニコニコして入ったが、不意打ちに会ったようにうろたえた、とあるルポにありました。
写真の中の少女たちに見つめられた気がしたのでしょう。“写真を見る”、それが逆に“写真から見られた”一例です…」。
この弾みで水俣に出掛けたのが誤算だった。水俣病の死者数は定期的にその端数まで発表されている。しかも、近年、水俣病を水俣市政の町おこしの柱に据え、公害の原点ミナマタとして、慰霊式を復活した水俣市…。だから死者の名簿はあるものと思っていた。しかし、無かったのだ。
まず熊本・鹿児島県当局では“死亡者リスト”なるものなかったようだ。さすがに水俣市とその隣町にはそれはあった。が、汚染地にもかかわらず、それが不備な町もある。
行政当局は「死者の鎮魂は良いことです。賛意を表します」と口を揃えておっしゃる。が、「プライバシーの保護のため、公表はしない」という慣例は堅かった。
原簿なるものは結局チッソにしかないことが分かるまでに、二か月かかった。つまり水俣病事件は加害者チッソと被害者との間の民事事件であり、行政は第三者の座にあった。
葬式には弔意を表する義務のあるチッソだけが不知火海の全死者リストを持っていた。無論、こちらには教えない。それが冒頭に述べた不本意な結果をもたらした。
死者や遺族の名前は私と助手のふたりで、聞き取りと新聞資料(死亡欄)などから割り出すほかなく、一年かけても八割しか判明しなかった。それが水俣病事件の現在なのだ。
一戸一戸の巡礼であった。東京からきた人間が「遺影を撮らせてくれ」という。遺族には承諾するには決断があったろう。冗談めかして「この人の行きたかった東京だもん、写真でなと行ってきなっせ」。「招魂式をやってくれなさるか」と遠来の客に優しかった
断る遺族も多かった。その暗い顔がいやでも残る。こうして五百人の遺影を得た。
水俣・東京展はある始まりかもしれない。これが機縁となり、水俣で死者の遺影がシンボリックな存在としてし原点の地、水俣にいつの日か祀られる事になれば、と思う。